第189話:赤間硯の深紫、千回磨った墨が宿す祈り
翌朝、長門湯本温泉を後にした小春とみすずは、小説家・中原蓮に教えられた古い工房――山口県が世界に誇る伝統工芸『赤間硯』の作房へとやってきていた。
工房の土間には、原石である巨大な岩塊が積まれ、石を削るタガネと金槌の乾いた音が響いていた。
迎えてくれたのは、白髪の硯職人――日野(ひの / 68歳)。
全身を石の粉で白く染めた職人が、小春の前に置いたのは、見る者を圧倒する気品を放つ、一面の硯だった。
「……あっ」
小春は息を呑んだ。
学校の書道セットに入っているような、軽くて平らな黒い硯とは全く違っていた。
色は、黒ではない。
深い紫色の絵の具を何層も塗り重ねたような、高貴でしっとりとした『赤紫色(紫泥色)』。
表面には、職人の彫刻ノミによって、長門の波と松が繊細に彫り込まれ、水を湛える『海(墨池)』は、まるで鏡のように平滑に研ぎ澄まされていた。
「これが、八百年の歴史を持つ日本の至宝――『赤間硯』だよ」
日野が愛おしそうに石肌を撫でた。
「山口県西部の険しい山中でしか採掘されない『赤間石』。地質学的には輝緑凝灰岩という極めて硬く緻密な石でな。鉄分を豊富に含んでいるから、この見事な赤紫色になる。……だが、赤間石の最大の奇跡は、その石の肌の中に眠っているんだ」
「石の肌の中に……?」
「そうだ」
日野は小春に虫眼鏡を手渡した。
「この硯の表面を、覗いてごらん」
小春がレンズを覗き込むと、驚愕の光景が広がっていた。
肉眼では完全にツルツルに見える硯の表面に、まるで満天の星空のように、無数のミクロの石英(水晶)の結晶が、均一に、そして無数に針のように立ち並んでいたのだ。
「これが『鋒鋩』だ」
日野が力強く語る。
「硯の命は、この鋒鋩にある。石英の硬い粒子がヤスリの役目を果たし、墨を極限まで細かく、均一に削り落とす。……世の中に硯は数あれど、この赤間石ほど細かく、密で、硬い鋒鋩を持つ石は、地球上に二つとねえんだよ」
日野は硯の海に、竹のスポイトで清らかな井戸水を三滴垂らした。
そして、桐箱から一本の奈良産の上質な松煙墨を取り出し、小春の手へと握らせた。
「さあ、お嬢ちゃん。この墨を持って、力を入れずに、円を描くように静かに擦ってごらん」
「私が……ですか?」
「そうだ。心を静めて、石と墨の対話を聴くんだ」
小春は正座し、背筋を伸ばした。
右手の親指と人差し指、中指の三本で墨を垂直に立て、水が垂らされた赤間硯の丘の上へと静かに降ろした。
そして、ゆっくりと、円を描くように滑らせた。
――スッ……シュッシュッ……シュッシュッ……。
「……っ!」
小春の背筋に、鳥肌が立った。
信じられない感触だった。
ガリガリとした嫌な引っかかりが一切ない。
まるで、上質な羊羹の上を絹の布で滑らせているかのような、ねっとりと重厚で、かつ滑らかな手応え。
擦るたびに、水がみるみるうちに漆黒の液体へと変化していく。
――シュッシュッ、シュッシュッ……。
土間に、心地よい規則正しい摩擦音だけが響く。
百回、二百回、五百回。
無心になって墨を擦り続けるうちに、小春の鼻腔を、えもいわれぬ清冽な香りが満たした。
松の脂を燃やして集めた煤と、天然の膠、そして龍脳や白檀の香木が溶け合った、墨独特の幽玄で神聖な芳香。
その香りを吸い込むたび、脳の奥底にこびりついていたSNSの毒素、恐怖、焦りが、綺麗に消し飛んでいくようだった。
「千回擦った墨はな、生き物になるんだ」
日野が静かに言った。
「赤間硯の微細な鋒鋩でナノ単位まで細かく磨り下ろされた墨の粒子はな、紙の繊維の奥の奥まで染み込んで、千年の時を経ても決して色褪せない漆黒の光を放つ。……液晶画面のドット(画素)の光はな、電源を切れば一瞬で消える幻だ。だが、この手で擦り、紙に命を染み込ませた墨の線はな、何百年経っても、描いた人間の魂をそのまま呼吸し続けるんだよ」
千回目を擦り終えた時、硯の海には、まるで漆黒の鏡のように光を反射する、トロリとした墨汁が湛えられていた。
小春は墨を置き、筆立てから一本の細い面相筆を取り出した。
穂先に、墨を含ませる。
手首が――震えていなかった。
あんなに激しく痙攣し、鉛のように重かった右手が、嘘のように軽やかで、温かかった。
日野が差し出してくれた一枚の和紙の上へ、筆先をそっと降ろした。
――スゥッ……。
紙の上に、一本の細く、力強い黒い線が走った。
滲みながら、和紙の繊維へと深く染み込んでいく、深く、温かい漆黒。
「……引けた」
小春の口から、掠れた声が零れた。
「線が……引けたわ……!」
みすずがそっと小春の肩に手を置いた。
「墨が、あなたの祈りを受け止めてくれたのですね。……さあ、小春さん。最後に向かいましょう。二十六年の生涯を、小さなノートに祈りを込め続けた、金子みすゞの魂の待つ場所へ!」




