第188話:足湯の飛び石、小説家・中原蓮が語る言葉の重み
夜九時を回り、長門湯本温泉の音信川は、川床の行灯と竹林のライトアップが水面に映り込み、昼間よりも一層幻想的な静寂に包まれていた。
川沿いの遊歩道を、みすずと並んで歩いていた小春は、川の真ん中に整然と並べられた大きな飛び石の前で立ち止まった。
その飛び石を渡った対岸――立ち寄り湯『恩湯』の前に設けられた木造の足湯処に、一人の男性が腰を下ろしていた。
三十代半ばと思われる、落ち着いた生成りの麻シャツを着た青年。
短く整えられた黒髪に、どこか遠くを見つめるような深みのある眼差し。
膝の上に一冊の文庫本を置き、足湯の温かい湯に足を浸しながら、夜の川風に静かに身を任せていた。
「……あら」
みすずが小さく声を漏らし、親しみを込めて微笑んだ。
「お久しぶりですね、蓮さん」
青年が顔を上げた。
その顔に、穏やかな、春の陽光のような笑みが浮かんだ。
「やあ、みすず。……相変わらず、綺麗な夜の川だね」
青年――**中原 蓮**。
かつて第一周遊(第八章)において、自らの文筆に行き詰まり、筆を折る寸前まで追い詰められながらも、萩の菊ヶ浜と鉄娘やまぐちによって救われ、長編小説『萩の白波』を書き上げて直木賞を受賞した、現代日本文学を代表する若き小説家だった。
「蓮さん、今夜はどちらへ?」
「新しい小説の取材を兼ねて、少し頭を冷やしにね。……この長門湯本の恩湯のぬる湯は、執筆で凝り固まった思考をほぐすのに、日本で一番贅沢な場所だからね」
蓮は視線を落とし、みすずの隣で縮こまるように立っている小春に目を留めた。
そして、小春が胸元で握りしめていた――あの画面がバキバキに割れたスマートフォンと、力なく垂れ下がった右手の指先に視線を注いだ。
「……君は」
蓮の声は、驚くほど柔らかく、静かだった。
「言葉の刃に……刺されてしまったのかい?」
「……っ!」
小春の肩が跳ね上がった。
何も言っていないのに、なぜこの見知らぬ男性は、自分の傷の正体を一瞬で見抜いたのか。
「驚かせてすまないね」
蓮は少しだけ場所を空け、木製のベンチを軽く叩いた。
「よかったら、足を浸けてごらん。……ここのお湯は三十九度。ぬるめだけれど、深層から自噴するアルカリ性の単純温泉だから、傷ついた神経を優しく鎮めてくれるよ」
小春はおずおずとサンダルを脱ぎ、足湯の縁に腰掛けて足を沈めた。
――ぽちゃんと、温かい湯の膜が足首を包み込む。
熱すぎない、人肌より少しだけ温かい柔らかな湯。
川のせせらぎが足元をくすぐり、全身の強張っていた筋肉が、ふうっと溜息とともに弛緩していく。
「……私は、小説を書いているんだ」
蓮は手元の文庫本を閉じ、音信川の川面を見つめながら静かに語り始めた。
「小説家なんていう仕事をしているとね、毎日が『言葉との戦い』だよ。……自分の心の一番深いところにある痛みを絞り出して、言葉にして紙の上に並べる。でもね、今の時代、ネットを開けば、無数の無責任な言葉が刃物のように飛び交っているだろう」
「……はい」
小春の喉が詰まった。
「『あんな作品はゴミだ』『あいつの書くものは盗作だ』『才能のないペテン師だ』……顔も名前も隠した人々が、安全な暗闇から、面白半分に石を投げてくる。……僕もね、かつてデビューしたばかりの頃、ネットの激しい誹謗中傷に晒されて、心を完全に壊したことがあるんだよ」
「え……? あなたが……ですか?」
小春は目を見開いた。
こんなにも穏やかで、思慮深そうな作家が、自分と同じ地獄を味わっていたなんて。
「ああ。毎晩、パソコンを開くのが怖くて、手が震えて原稿用紙が一文字も埋まらなくなった。……『僕が書いているものは、誰かを騙しているだけじゃないか』『僕の言葉なんて、誰にも届いていないんじゃないか』ってね。……萩の海へ逃げ出して、波に呑まれて死んでしまおうとすら思ったよ」
蓮は自らの右手を広げ、掌を見つめた。
「でもね、その時、僕は気付かされたんだ。……言葉も、絵もね、小春さん。ネットの数字を稼ぐための道具じゃないんだよ。……誰かを言い負かすための武器でもないし、大勢にチヤホヤされるための飾りでもない」
蓮は小春の目を、真っ直ぐに、慈愛を込めて見つめた。
「表現というのはね……傷ついた自分自身の魂を、そっと抱きしめてあげるための『祈り』なんだよ」
「祈り……?」
「そう。そして、その祈りを込めて紡ぎ出した線や言葉はね……暗闇の中で同じように膝を抱えて震えている、世界中のどこかの『たった一人の誰か』と、静かに手を繋ぐための、細い、けれど絶対に切れない『糸』なんだ」
蓮の言葉が、音信川のせせらぎとともに、小春の魂の最深部へと染み渡っていく。
「十万人、三十万人の顔の見えないフォロワーなんて、いなくていいんだよ。……千人に石を投げられ、罵倒されたっていい。……君が描いたそのたった一枚の絵が、世界の片隅で泣いている、たった一人の少女の夜を照らし、『生きていてよかった』と思わせてあげられたなら……それだけで、君の表現は、宇宙のすべての星よりも尊いんだ」
「たった一人の……誰かのために……」
小春の目から、大粒の涙がポロポロと足湯の湯面へと零れ落ちた。
「私……忘れていました……! 最初は、いじめられて学校に行けなかった中学生の自分を慰めたくて、スケッチブックに小さな光を描いたのが、私の絵の始まりだったのに……! いつの間にか、大勢の拍手ばかりを欲しがって、あの中学生の私を、置き去りにしてしまっていた……!」
小春は膝の上で両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
音信川のせせらぎが、小春の慟哭を優しく包み込み、流していく。
蓮は静かに立ち上がり、小春の肩に優しく手を置いた。
「泣きなさい、小春さん。……君の涙はね、もう濁っていないよ。……明日、萩の赤間硯の工房へ行くといい。そこで、墨を磨りなさい。自分の手で、心を込めて磨った墨はね、どんな液晶画面よりも深い、本当の光を君の筆に宿してくれるから」
蓮はみすずに一礼し、下駄の音を静かに響かせながら、夜の温泉街の奥へと歩み去っていった。
残された小春の胸には、失われていた「誰のために描くのか」という初心の灯火が、二度と消えない炎となって、赤々と灯り始めていた。




