第187話:長州黒かしわの水炊き、漆黒の地鶏が放つ滋味
川床テラスに面した老舗料理処『音信庵』の座敷。
畳敷きの中央に据えられた卓の上には、重厚な黒伊賀の土鍋とガスコンロが置かれ、すでに鍋の蓋の隙間から、シュウシュウと白く濃厚な蒸気が噴き出していた。
「お待たせいたしました。長門の山海の至宝――『長州黒かしわ』の特選水炊きでございます」
仲居が恭しく土鍋の重い蓋を取った。
――ボワッ……!
「……っ!?」
小春の顔を、圧倒的な熱気と芳醇な香りが直撃した。
鍋の中に湛えられていたのは、澄んだ水ではなかった。
まるで豆乳か極上の豚骨スープのように、白濁し、表面に黄金色の鶏油の玉がキラキラと無数に浮き上がる――濃厚極まりない鶏ガラスープだった。
そしてそのスープの波間に、骨ごと豪快にぶつ切りにされた、大振りの鶏肉がゴロゴロと沈んでいた。
皮はほんのり青みがかった灰黒色。
身は引き締まり、赤身のように濃いピンク色をしている。
「これが、長門が誇る幻の地鶏――『長州黒かしわ』でございますえ」
みすずが微笑みながら、小春の取り皿に、まずはお玉でスープだけを注いでくれた。
「黒かしわ……? 普通の鶏肉と、どう違うの?」
「長州黒かしわはね、国の天然記念物に指定されている日本の固有種『黒柏鶏』をルーツに持つ、山口県が十年の歳月をかけて生み出した奇跡の地鶏なのです。……ケージの中に閉じ込められるブロイラーとは全く違い、長門の広大な山あいの平飼い鶏舎で、ストレスなく百日以上もの時間をかけてじっくりと育てられるのですよ」
仲居が勧める。
「まずは、萩の天然塩だけをパラリと振って、このスープをひと口味わってみてくださいませ。鶏ガラを丸ごと八時間、アクを丁寧に取り除きながら強火で煮詰めた、純粋な命のエキスでございます」
小春は両手で器を持ち上げた。
唇を近づけると、鶏独特の嫌な臭みや脂っこさは皆無。
まるで上質なミルクかポタージュのように芳醇で、食欲中枢を直接揺さぶる香気。
一口啜る。
――ズズッ……。
「……っっっ!?」
小春の背筋がピンと伸びた。
「な……なにこれ……っ! 濃厚なのに、全然脂っこくない……! 舌の上に、鶏の旨味が凝縮されて、トロトロと絡みついてくる……!」
驚愕のスープだった。
唇を合わせると、豊富な天然コラーゲンのせいで、ペトリと吸い付くような濃密さ。
喉を通る瞬間、胃の底からポカポカと温かい熱が全身の血管へと駆け巡り、冷え切っていた手足の先まで、エネルギーがドクドクと満ちていく。
「さあ、お次はお肉をどうぞ」
みすずが取り分けてくれたのは、皮つきの骨付きもも肉。
自家製の橙ポン酢に少しだけつけ、ハフハフと息を吹きかけながら、骨ごと豪快にかじりついた。
――ガシッ……ジュワワワワワァァァッッ!!
「……っ! すごい歯ごたえ……!」
噛み締めた瞬間、小春は目を瞠った。
若鶏のようなフニャフニャとした柔らかさとは全く次元が違う。
奥歯を力強く押し返すような、強烈な弾力と筋肉の引き締まり!
だが、決して筋張って硬いのではない。
噛めば噛むほど、肉の繊維の奥から、野性味あふれる力強いアミノ酸のジュースが、泉のように湧き出してくるのだ。
皮のゼラチン質はプルプルと甘く、橙ポン酢の爽やかな酸味が、黒かしわの濃厚な脂を極上の爽快感へと昇華させる。
「美味しい……! 噛めば噛むほど、お肉の味が濃くなっていく……!」
「そうでしょ!」
みすずも嬉しそうに頷いた。
「長州黒かしわの肉にはね、旨味成分であるイノシン酸が、一般的な鶏肉の数倍も含まれているのです。……山を走り回り、太陽を浴びて鍛え上げられた筋肉だからこそ、これほど力強い命の味がするのですよ」
鍋の中では、スープの旨味を吸い込んだ長門特産の青ネギが、クタクタと飴色に煮込まれていた。
原木椎茸、白滝、豆腐。
それらを口に運ぶたび、身体の奥深くから、生きる力が湧き上がってくる。
「小春さん、このお酒も少しどうぞ」
みすずが注いでくれたのは、萩の名門蔵・澄川酒造場が生み出す銘酒『東洋美人』の純米大吟醸。
冷えた切子グラスを傾けると、まるでマスカットのような気品ある吟醸香が広がり、水炊きの濃厚さをスッと洗い流してくれる。
「……温かいな。……本当に、身体の芯まで温まる」
小春は器を両手で抱え、目を潤ませた。
「私……東京にいた時、何を食べていたんだろう。……パソコンの前に座りっぱなしで、コンビニのゼリーを胃に流し込んで……。食べ物の味も、季節の移ろいも、全部忘れていたわ」
「そうですね」
みすずが静かに小春を見つめた。
「人間はね、土から生まれ、海に育まれ、命をいただいて生きる生き物です。……画面の中の数字や評価ばかりを食べて生きていくことなんて、できやしないのですよ」
命を食べて、命を繋ぐ。
黒かしわの力強い肉片が、小春の冷え切っていた胃袋を、そして魂を、根底から温め直していた。
「ごちそうさまでした……」
小春が深く頭を下げると、みすずは優しく微笑んだ。
「さあ、お腹が満たされたら、夜の音信川へ散歩に出かけましょう。……足湯の飛び石のところで、あなたを待っている方がいらっしゃいますよ」




