第186話:長門湯本温泉の川床、音信川のせせらぎと夜咄
仙崎の海を離れた小春とみすずは、長門市駅から美祢線の列車に乗り継ぎ、わずか十五分。
深い山あいの谷あいに広がる、山口県最古の開湯六百年を誇る名湯――長門湯本温泉へとやってきていた。
夕暮れ時。
温泉街の中央を滔々と流れる清流――音信川。
かつて藩主や武士たちが湯治に訪れた歴史を持つその川の両岸には、近年、星野リゾートをはじめとする大規模な景観再生プロジェクトによって、息を呑むほど美しく風雅な遊歩道と竹林の回廊が整備されていた。
「……わあ……っ」
小春は思わず足を止め、川面を見つめた。
川の中に配置された無数の飛び石。
その清らかな浅瀬の上に、水面すれすれにせり出すようにして設けられた、竹と木の一枚板のデッキ――『川床テラス』。
川辺には、淡いオレンジ色の和紙行灯がポツポツと灯り始め、薄暗くなった谷あいを、幻想的な幽玄の光で包み込んでいた。
「おいでなさい、小春さん。今夜は、この川床でお茶をいただきましょう」
みすずに導かれ、小春は靴を脱ぎ、川床の木板の上に正座した。
板の隙間から、足元わずか数十センチ下を流れる音信川の冷たい風が吹き抜けていく。
――サラサラサラ……カラン、コロン……。
耳朶を打つのは、川のせせらぎの音と、川沿いの立ち寄り湯『恩湯』から浴衣姿で歩いてくる湯治客たちの、心地よい下駄の音だけ。
電車の走行音も、車のクラクションも、そして何より――あの忌まわしいスマートフォンの電子音も、ここには一切届かない。
深い静寂。
耳を澄ませば澄ますほど、水が岩を洗う音が、全身の細胞の汚れを洗い流していくように感じられた。
「気持ちいい……。こんな場所が、日本にあったなんて知らなかった……」
「長門湯本はね、室町時代の応永三十四年(1427年)、大寧寺の定庵禅師が、住吉大明神のお告げによって発見した神授の湯なのですよ」
みすずが急須から、萩の特産である夏みかんの花びらをブレンドした温かいほうじ茶を、萩焼の湯呑みへと注いでくれた。
湯気とともに立ち上る、柑橘の爽やかな甘みと、炒りたての茶葉の香ばしさ。
両手で包み込んで一口含むと、身体の芯の冷えが、ポロリと解けていく。
「昔、この音信川にはね、切ない恋の伝説が語り継がれていました」
みすずは行灯の揺れる水面を見つめながら語り始めた。
「江戸時代、湯治場に仕えていた若い娘が、身分違いの侍に恋をしました。でも、想いを伝えることすら許されない厳しい掟の中、娘は想いを短冊に綴り、この川の流れへとそっと流したのです。『音信』……音の便りを川に託してね」
「音信川の名前は、そこから来ているのね……」
「ええ。川の水はね、人間の悲しみも、届けられなかった祈りも、すべてを受け止めて、海へと運んでくれるのです」
みすずは小春の横顔を優しく見つめた。
「小春さん。……SNSのタイムラインはね、濁流の泥水と同じです。誰かが誰かを罵倒し、悪意を撒き散らし、目まぐるしく濁った水が渦を巻いている。……そんな場所に身を沈めていたら、誰だって溺れて息ができなくなってしまいます」
みすずは足元の澄み切った音信川を指差した。
「見てごらんなさい、この川の水を。底の小石の一粒一粒まで、透き通って見えているでしょう? ……流れる水は、決して淀みません。悪意に囚われず、ただ前へ、海へと向かって、自分自身の命を清らかに保ちながら流れ続けている。……あなたも、心のタイムラインを、この清流のように澄み渡らせてよろしいのですよ」
小春は川床の端に座り直し、裸足の足を川の水へとそっと伸ばした。
――ヒヤリッ……!
冷たい川の水が、足首を優しく洗う。
その瞬間、頭の中にこびりついていた無数の罵倒の言葉、匿名の嘲笑の声が、スーッと水に溶けて流れていくような感覚があった。
「……ああ……涼しい……」
小春の口から、本当に久しぶりの、心からの安堵の吐息が漏れた。
川沿いの竹林が、サワサワと風に鳴る。
行灯の温かい光が、小春の涙に濡れた頬を柔らかく照らし出していた。
「さあ、お茶で喉を潤したら、今夜は長門の奥座敷の誇る、最高のご馳走をいただきましょう」
みすずが立ち上がり、川床の奥の料理処の暖簾を指差した。
「漆黒の羽を持つ幻の地鶏が、あなたの命の火を、力強く燃え上がらせてくれますよ!」




