↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
185/214

第185話:透き通る活イカ、命の最後の脈動を噛み締める

蒲鉾の工場を後にした小春とみすずは、仙崎漁港の海沿いに佇む生け簀割烹『喜楽(きらく)』の暖簾をくぐっていた。

 店の奥、広々とした円形の生け簀の中では、日本海から引き込まれた冷たい海水が渦を巻き、銀色に輝く魚たちとともに、細長い流線型の生物たちが優雅にヒレを波打たせて群れ泳いでいた。

 

「いらっしゃい! みすずさん、ちょうど今、萩沖の船から最高の活イカが入ったばかりだよ!」

 

 大将が網を入れ、生け簀から手際よく一匹のイカを掬い上げた。

 ピュッと海水を噴き上げ、怒ったように全身を真紅に染めるイカ。

 大将はまな板の上に置くと、目にも止まらぬ包丁捌きで、わずか数十秒のうちに一皿の芸術品へと仕立て上げた。

 

 運ばれてきたガラスの大皿を見て、小春は思わず息を呑んだ。

 

「……あっ! う、動いてる……!」

 

 それは、山口県が全国に誇る夏の王様――『仙崎活イカ(ケンサキイカ)の姿造り』だった。

 皿の上に丸ごと横たえられたイカ。

 その足(ゲソ)は、まだ生きているかのようにウネウネと動き、触腕が皿の縁をまさぐっている。

 何より小春を驚愕させたのは、その身の透明度だった。

 

「透き通ってる……! お皿の底の青い模様が、イカの身を通して、そのまま透けて見えているわ……!」

 

 白く濁ったスーパーの切り身とは、完全に別物だった。

 まるで、磨き上げられたクリスタルガラスか、氷の彫刻のように完全な透明。

 そして、身の表面に散らばる微細な色素細胞が、チカチカ、パチパチと、星の瞬きのように虹色に明滅を繰り返していた。

 命の、最後の脈動。

 

「どうぞ、この透き通っているうちに召し上がってください」

 みすずが静かに促した。

「活イカの身はね、空気に触れて時間が経つと、自らの身を守るために白く濁ってしまいます。この透明な輝きは、水揚げされてからわずか数十分の間だけ許された、命の一瞬の輝きなのですよ」

 

 小春は震える手で箸を伸ばし、細造りにされた透明な身をひと筋、つまみ上げた。

 醤油差しから、萩特産の甘口の刺身醤油を小皿に垂らし、生姜を少しだけ添えて、イカの身をくぐらせる。

 

 ――ッ!

 

 醤油がついた瞬間、イカの身の繊維がキュッと縮み上がった。

 口の中へ放り込み、奥歯で噛み締めた。

 

 ――パツンッ……コリコリッ……!

 

「……っ!?」

 小春の瞳が見開かれた。

 

「……すごい歯切れ……! パツンッと弾けた……!」

 

 信じられない食感だった。

 噛み始めは、まるで採れたての果実のように小気味よいクリスピーな歯ごたえ。

 しかし、二度、三度と咀嚼を繰り返すうちに、イカの身が体温で温まり、舌の上にねっとりと絡みつくような、濃厚極まりない極上の甘みへと劇的に変化したのだ。

 甘い。あまりにも甘い。

 砂糖の甘さではない、極限まで新鮮なケンサキイカだけが持つ、グリシンやアラニンといった甘味アミノ酸の奔流!

 萩の甘露醤油のコクが、その甘みを何倍にも増幅させ、喉の奥へと滑らかに落ちていく。

 

「美味しい……! イカって、こんなに甘くて、こんなに生命力に満ちているものなの……!?」

「ええ」

 みすずは静かに頷き、動くゲソを見つめた。

「海の中で、光を浴びて泳いでいた命が、今、あなたの血肉となって、あなたを生かしてくれているのです。……小春さん、スマートフォンを置いてごらんなさい」

「え……?」

 

 みすずは小春のポケットから、あの割れたスマートフォンを指差した。

 

「画面の中に流れる無数の悪意や罵倒はね、所詮、電気信号でできた、体温のない『記号』にすぎません。……他人の痛みを想像できない人々が、安全な暗闇から投げつけてくる記号に、あなたの命を明け渡してはいけません」

 

 みすずの声が、小春の胸の芯へと染み渡る。

 

「本物の命はね、このイカのように、生々しく、温かく、痛みを伴いながら、今、あなたの目の前にあるのです。……命をいただき、噛み締め、生きる歓びを取り戻すこと。……それこそが、あなたが人間として立ち上がるための、最初の第一歩なのですから」

 

 小春は箸を強く握りしめた。

 ネットの炎上に怯え、部屋に閉じこもり、世界中のすべてが自分を呪っていると思い込んでいた。

 だが、違った。

 世界には、こうして海を泳ぎ、人に命を捧げてくれる生き物がいる。

 丹精込めて魚を捌き、笑顔で客を迎えてくれる人々がいる。

 自分の狭いスマートフォンの画面の外には、果てしなく豊かで、広大な「本当の世界」が広がっていたのだ。

 

「……ごちそうさまでした」

 小春が手を合わせると、大将が残ったゲソとエンペラ(耳)をサッと天ぷらにして出してくれた。

 熱々の衣をかじると、サクッとした軽やかさの奥から、火を通すことでさらに甘みを増したイカの旨味がジュワリと溢れ出した。

 

「さあ、お腹が満たされたら、今夜は山懐の名湯へ向かいましょう」

 みすずが立ち上がり、微笑みかけた。

「開湯六百年、音信川のせせらぎが流れる長門湯本温泉へ。……あなたの冷え切った心を芯から温め、そして……あなたが出会うべき『運命の言葉』が、そこで待っていますよ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。