第184話:仙崎の焼き抜き蒲鉾、板の下から立ち上る炎
青海島を後にした小春とみすずは、仙崎港の古い港町へと戻っていた。
海沿いの細い路地に入ると、ふわりと香ばしい焼き魚の匂いと、杉の木の清々しい芳香が漂ってきた。
創業百二十年を数える老舗蒲鉾蔵『大和水産』。
木造の作業場の引き戸をくぐると、ひんやりとした土間の中に、もうもうと立ち上る白い湯気と、赤々と燃える炭火の熱気が充満していた。
「いらっしゃい、みすずのお嬢さん! ……おや、東京のお客さんかい。ちょうど今、一番ええ炭火で蒲鉾を焼き抜いとるところだよ」
出迎えてくれたのは、ねじり鉢巻に白いエプロンを締めた熟練の蒲鉾職人――友田(ともだ / 62歳)だった。
長年の冷水作業で赤く太くなった指先。
作業場の中央に据えられた、長さ五メートルにも及ぶ特注の長い焼き台の前に立つ。
「友田さん、こんにちは! この子に、仙崎の海が育んだ、本当の『芯の強さ』を見せてあげたくてお邪魔しました」
「芯の強さかい。……いい言葉だ。なら、この焼き台をじっくり見ていきな」
小春は焼き台を覗き込んだ。
そして、驚きの声を上げた。
「……えっ!? これ……下から火を当てているの……?」
「そうさ」
友田がニヤリと笑った。
通常の全国各地の蒲鉾――たとえば小田原や富山などの蒲鉾は、蒸し器に入れて高温の水蒸気で「蒸す」ことで固めるのが一般的だ。
あるいは、笹かまぼこのように、魚の表面を直火で直接炙って焼き目をつける。
だが、仙崎の伝統製法『焼き抜き(やきぬき)』は、そのどちらとも全く違っていた。
厚さ一センチほどの天然の杉板の上に、山型にこんもりと盛られた真っ白な魚のすり身。
その蒲鉾が並べられているのは、炎の上ではない。
なんと、すり身を上にしたまま、下の『杉板の底』にだけ、炭火の遠火が当てられていたのだ。
「板の下から……焼くんですか? すり身に直接、火を当てないんですか?」
「当たり前よ!」
友田が胸を張った。
「魚のすり身に直接炎を当てちまったら、表面がすぐに焦げて、硬い皮膜ができちまう。そうすりゃあ、中の水分が閉じ込められて、フニャフニャの蒸し焼きになっちまうんだ。……仙崎の焼き抜きはな、杉板という『土台』を通して、下からじんわりと、時間をかけて間接的な熱を伝えていくんだよ」
友田は焼き台の火加減を団扇で調整しながら語り続けた。
「板を通して伝わった熱が、すり身の底からてっぺんに向かって、ゆっくり、ゆっくりと芯まで通り抜けていく。その熱に驚いて、魚のタンパク質がギュウッと身を寄せ合い、強靭な網目構造を作るんだ。……だからな、仙崎の蒲鉾は、表面に焼き色を一切つけず、雪のように真っ白なまま、歯を跳ね返すような凄まじい弾力が生まれるんだよ」
焼き上がったばかりの蒲鉾が一本、焼き台から引き上げられた。
湯気が立ち上る。
杉の板の裏側は真っ黒に焦げているのに、上に乗ったすり身は、傷一つない白磁のように輝いている。
友田が包丁を入れ、厚さ一・五センチほどに切り分けて、小春の前の小皿に載せてくれた。
「さあ、冷めないうちに。何もつけずに、そのまま奥歯で噛みちぎってみな!」
「い、いただきます……!」
小春は一切れを指でつまんだ。
指先で押してみると、ゴムボールのようにムギュッと沈み込み、指を離した瞬間にピンッと元の形へと跳ね返った。
口の中へ放り込み、奥歯で一気に噛み砕いた。
――パツンッッ!! ギシッ、ギシッ……!
「……っ!?」
小春の目が点になった。
「な……なにこれ……!? すごい弾力……! 歯が、押し戻される……!?」
信じられない食感だった。
スーパーで売っている安物の蒲鉾のような、フニャリとした柔らかさや、小麦粉のような粉っぽさは微塵もない。
まるで、活きのいい白身魚の筋肉をそのまま噛み締めているかのような、力強く心地よい反発力!
そして、咀嚼するたびに口いっぱいに広がったのは、原料である高級魚『エソ』の、濃厚で混じり気のない天然のアミノ酸の旨味だった。
杉板の清らかな木の香りが、魚の旨味を上品に引き締め、後味に爽やかな余韻を残す。
「美味しい……! こんなに噛みごたえがあって、魚の味が濃い蒲鉾、生まれて初めて食べました……!」
「がはは! せやろ!」
友田が嬉しそうに頷いた。
「うちの蒲鉾はな、冷凍の輸入すり身なんて使わん。仙崎の港に今朝揚がったばかりの生きたエソを手作業で捌き、デンプンや増量剤の粉を一粒も混ぜずに、純粋な魚の身だけで練り上げとるんや。……誤魔化しのきかん、本物の味よ!」
友田は真っ黒に焦げた杉板を指差した。
「お嬢ちゃん。世の中にはな、上から手っ取り早く直火を当てて、派手な焼き目をつけて誤魔化そうとするもんが溢れとる。……だがな、そんなもんは、ちょっと強く噛まれたらすぐにボロボロと崩れてしまうんや」
職人の言葉が、小春の胸に深く刺さる。
「大事なんはな、見えんところでじっくりと熱を蓄える『土台』や。……板の下から、誰にも見られんところでじっくりと芯を温め続けたもんだけがな、どんな激しい嵐に噛みつかれても、跳ね返して生き残れる『本当のコシ』を宿すんやで」
――見えないところで、じっくりと芯を温める。
小春は口の中の蒲鉾を噛み締めながら、涙を堪えた。
自分は、上からの派手な炎ばかりを求めていた。
SNSのバズ、リツイート、フォロワーの歓声という直火で、自分を焦がして、中身のすり身を空っぽにしていたのだ。
本当に必要だったのは、誰にも見られない暗い場所で、じっくりと自分の魂の芯を温め続ける、見えない土台だったのだ――。
「小春さん」
みすずが優しく微笑み、小春の手を引いた。
「仙崎の海の恵みは、まだまだこんなものじゃありませんよ。……次は、今まさに命を震わせている、海の真実の姿を見にまいりましょう!」




