第183話:青海島の断崖、目に見えぬ魚たちの弔い
仙崎を出発した『みすず』は、仙崎湾にかかる青海大橋を渡り、北長門海岸国定公園の中心に位置する周囲約四十キロメートルの島――青海島へと差し掛かっていた。
車窓の両脇に広がるのは、穏やかな内海とは一変した、日本海の荒れ狂う波浪が何百万年もの歳月をかけて削り上げた、大自然の彫刻群――別名『海上アルプス』だった。
ザザザザァァァ……ドオオオオオンッ!!
高さ百メートルを超える黒々とした断崖絶壁に、白波が叩きつけられ、激しい飛沫を上げている。
海上に突き刺さるように屹立する奇岩怪石の群れ――象の形をした『象鼻岩』や、洞窟の奥へと光が差し込む『十六羅漢』。
「降りてごらんなさい、小春さん」
みすずに促され、小春は海を見下ろす展望デッキの手すりに近づいた。
吹き付けてくる潮風が、小春のパーカーのフードを乱暴に剥ぎ取り、乱れた髪を激しく揺らす。
眼下の海は、吸い込まれそうなほど深いコバルトブルー。
波の白と、海の深い青のコントラストが、あまりにも鮮やかで、痛烈だった。
「……怖いほどの海ね」
小春が身を縮めながら呟くと、みすずは手にした文庫本のページを静かにめくり、海に向かって凛とした声で言の葉を紡ぎ始めた。
「――朝焼け小焼けだ 大漁だ
大羽鰯の 大漁だ。
浜は祭りの ようだけど
海の底では 何万の
鰯のとむらい するだろう。」
みすずの澄んだ朗読が、波の音と混ざり合い、青海島の断崖に反響した。
金子みすゞの代表作――『大漁』。
「大正の昔、ここ仙崎は日本有数の鰯の水揚げ港でした」
みすずは海原を見つめながら語り始めた。
「夜明け前、沖合から大漁旗を掲げた漁船団が帰ってくると、浜辺には篝火が焚かれ、太鼓が鳴り響き、男も女も大声を上げて歓喜の宴を開きました。『大漁だ! 大儲けだ!』とね」
みすずは視線を下げ、白波が砕け散る暗い海面を見つめた。
「でもね、小春さん。わずか二十歳の金子みすゞだけは、その大漁の歓声に沸く浜辺で、一人、暗い海の底へと想いを馳せたのです。……人間に獲り尽くされ、網の中で圧死し、引き裂かれていった何万尾もの鰯たち。その海の底で、親を失い、子を失った魚たちが、どれほどの涙を流して弔いをしているだろうか、と」
「浜の歓声の……裏にある、海の底の悲しみ……」
小春の胸が、ズキンと疼いた。
「そうです。世の中の人々はね、いつの時代も、太陽の当たる華やかな『祭り』ばかりに群がります。……誰かが大成功した、誰かの投稿が何十万リツイートされた、フォロワーが何万人増えた……。その派手な歓声と数字ばかりを追いかけて、狂乱のダンスを踊るのです」
みすずは小春の瞳を、静かに見つめた。
「でもね、小春さん。その派手なバズや称賛の裏で、誰かが些細なきっかけで標的にされ、匿名の群衆に石を投げつけられ、暗い海の底へと沈められていく……。その『踏み躙られた痛み』に、誰が気付いてあげるというのでしょう?」
「……っ!」
小春の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私……私ね、みすずさん……」
小春は両手で顔を覆い、しゃがみ込んだ。
「最初は、ただ絵を描くのが好きだったの。誰にも見せなくても、小さなスケッチブックの隅っこに、大好きな動物や星の絵を描いているだけで、胸がいっぱいだったの……。それなのに……SNSで絵を褒められて、数字が増えていくうちに……いつの間にか、『どうすればバズるか』『どうすればもっと多くの人にチヤホヤされるか』ばかりを考えるようになっていたの……」
小春の喉が、引き攣るように鳴った。
「数字を稼ぐために、流行りの構図を真似して、派手なエフェクトを塗りたくって……。私は、自分の心の中の本当の声を、とっくに殺していたんだわ。……だから、あんな炎上を起こして、ネットの群衆に引き裂かれた時……私の中には、自分を守るための『本当の芯』なんて、何一つ残っていなかったのよ……!」
潮風が激しく吹き荒れ、白波が岩を噛み砕く。
小春の嗚咽が、波の音の中に掻き消されていく。
みすずは何も言わず、ただそっと小春の隣に膝をつき、海鳥の羽のような青いショールを小春の震える肩へと掛けた。
「泣きなさい、小春さん。……海の底の暗闇に沈んだ者だけが、本当の光の尊さを知ることができるのですから」
みすずの言葉は、冷たい風の中で、母親の体温のように温かかった。
「さあ、立ち上がりなさい。仙崎の港には、見えない炎でじっくりと芯を鍛え上げた、職人たちの命の技が待っていますよ」
小春は涙を拭い、みすずの手を握りしめた。
荒れ狂う青海島の断崖の向こう、初夏の太陽が、青い海面を銀色に照らし始めていた。




