第182話:仙崎駅の静寂、幻の海風気動車
山陰本線の長門市駅から、わずか二・二キロメートルだけ北の日本海へと突き出した盲腸線――仙崎支線。
その終着駅である仙崎駅の単線ホームは、初夏の強い西日を浴びて、世界の果てのように静まり返っていた。
線路は車止め標識で行き止まりとなり、その向こうには、青々とした松の木と、微かに磯の香りを運んでくる仙崎湾の穏やかな海原が広がっている。
ホームの片隅、木製の古びたベンチに、白川小春(しらかわ こはる / 24歳)は力なく項垂れていた。
二十四歳。
オーバーサイズのパーカーのフードを目深に被り、両手で抱え込んだスマートフォンの画面は、蜘蛛の巣のようにバキバキにひび割れていた。
画面を点けると、今なお止まらないSNSの通知バッジが数千件、数万件と赤く点滅している。
『トレパク絵師・白川小春の悪事を許すな』
『構図丸パクリで何百万円も稼いで恥ずかしくないの?』
『死ねよ詐欺師』
『こいつの実家、特定されたらしいぞw』
画面をスワイプするたびに、毒の塗られた無数の言葉の礫が、小春の網膜を、そして心臓を容赦なく切り裂いていく。
「……っ、う……っ、うう……」
小春は呼吸が苦しくなり、慌ててスマートフォンの電源ボタンを長押しして電源を落とした。
真っ黒になった画面に、隈の浮き出た自分の青白い顔が惨めに映り込む。
バッグのポケットから取り出したのは、一本のデッサン用鉛筆。
だが、その芯は根元からポッキリと折れ、震える指先は鉛筆を握ることすらできず、手首から先が痙攣して激しい吐き気を催した。
半年前まで、小春は「新進気鋭の天才イラストレーター」として、ネットの世界で持て囃されていた。
美術大学を卒業後、SNSに投稿した幻想的で透明感あふれる光のイラストが数十万リツイートを記録して大バズり。
フォロワーは一気に三十万人を超え、大手企業の大型広告や、大人気音楽ユニットのジャケットイラストの依頼が殺到した。
だが、天国から地獄への転落は、たった一夜の出来事だった。
ある大企業のキャンペーンイラストで描いた少女のポーズと背景の雲の形が、海外の有名写真集の構図と酷似していると、匿名の掲示板で指摘されたのだ。
小春はその写真集など見たこともなく、完全な偶然の一致だった。
だが、ネットの炎上という名の暴風雨に、真実など何の価値もなかった。
『トレパク確定!』『検証画像流出!』
まとめサイトや炎上系インフルエンサーが面白おかしく煽り立て、無数の正義面をした匿名の群衆が、小春のアカウントへと雪崩れ込んできた。
弁明の言葉を投稿すれば「見苦しい言い訳をするな」と炎上はさらに油を注がれ、クライアント企業は「企業イメージの失墜を避けるため」と、すべての案件を即日契約解除。
億単位の損害賠償を請求すると脅され、実家の電話番号や家族の写真までネット上に晒された。
『白川さん、世間を騒がせた責任はすべてあなたにあります。二度とイラストの世界に関わらないでください』
エージェントから冷酷に告げられた最後通牒。
(私の描いてきた絵は……誰かの心を温めるどころか、人を傷つけ、自分自身を破滅させるだけの、毒だったんだ……)
液晶タブレットを床に叩きつけて割り、逃げるように飛び乗った西へ向かう列車。
辿り着いたのは、かつて高校の国語の教科書で読み、唯一、小春の孤独な心に寄り添ってくれた大正の童謡詩人・金子みすゞの生まれた町――長門市仙崎だった。
みすゞが二十六歳でその命を海へ還したように、自分もこの青い海の底へ消えてしまえば、すべては静かになるのではないか――そんな暗い衝動に突き動かされて。
「……あの、落としましたよ。あなたの、大切な心の鍵を」
澄み切った、波の音のような静かな声が頭上から降ってきた。
小春が驚いて顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。
白とマリンブルー(海碧色)を基調とした、どこかノスタルジックで清楚なセーラー風和装ドレス。
藍染めの絣の帯に、小さな白貝と真珠の根付。
風に揺れる海鳥の羽のような淡い青のショール。
そしてその双眸――日本海の深海を思わせる、深く澄み切ったターコイズブルーの瞳。
その少女の両手には、一冊の古い文庫本が抱えられていた。
擦り切れた表紙、青い波の絵。
(※第十七章で富山・高岡駅の待合室に置かれ、滝沢宗助が拾い上げてべるもんたに託した、あの『金子みすゞ童謡集』だった!)
「……あっ! それ、私の……! 東京の駅で、無くしたと思っていたのに……!」
「富山から、風に乗ってあなたの元へと戻ってきたのですよ」
少女は静かに微笑み、その本を小春の膝の上へと優しく置いた。
「私は『みすず』。かつてこの山陰の海沿いを駆け抜けた観光列車『みすゞ潮彩』の魂を受け継ぎし、海風気動車の鉄娘です」
「みすず……? 鉄娘……?」
「ええ。言の葉の重みと、海の痛みを記憶する者です」
みすずは小春の胸元を指差した。
その瞬間、小春のパーカーのポケットの中で、カサリと硬い紙片が音を立て、青く透き通る海のような熱を帯び始めた。
引き出してみると、そこには見覚えのない昔ながらの硬券切符が光を放っていた。
中央に刻まれた、深みのある文字――『風の切符』。
「風の……切符……?」
「あなたの魂が、あまりの言葉の刃に切り刻まれ、声なき悲鳴を上げているのを、この切符が教えてくれました」
みすずは線路の先を指差した。
――ポォォォォォン……。
行き止まりのはずの線路の彼方から、陽炎を揺らめかせて姿を現した一編成の気動車。
白と紺のツートンカラー。
アールデコ調の大きな八角形の窓と丸窓を持ち、車体側面には金子みすゞの詩を象った波の紋様が刻まれている。
「乗りなさい、小春さん」
みすずは静かに小春の手を取った。
その手のひらは、冷え切った小春の指先を、潮風の温もりで包み込んでくれた。
「何十万のフォロワーからの歓声の裏で、あなたの心の一番大切な声は、どこへ置き去りにされてしまいましたか? ……海の底で泣いているあなたの本当の命を、探しにまいりましょう」
拒む力などなかった。
小春はみすずに導かれ、幻の海風気動車『みすず』のステップを上がった。
ドアが閉まり、列車は静かに軋みを上げて、青き日本海へと向かって滑り出していった。




