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第181話:緑の切符、長門の青き海に眠る一冊の詩集

氷見線から再び『べるもんた』に揺られ、旅の起点である高岡駅へと戻ってきたのは、陽が高く昇った午前十時のことだった。

 改札口へと向かう跨線橋の上。

 初夏の風が吹き抜ける中、宗助は肩のオリーブドラブの帆布バッグを直しながら、べるもんたとともに立ち止まった。

 

 その時だった。

 宗助のツイードジャケットの内ポケットが、ドクンと静かに脈打つように、温かな熱を帯びた。

 

「……あっ」

 

 取り出したあの厚紙――『風の切符』。

 深い森と海の色をした硬券が、朝露に濡れた若葉のように、眩いエメラルドグリーンと黄金色の光を放ち始めた。

 切符の表面に、見えない印鑑が押し当てられたかのように、ジジジ……と音を立てて朱色の紋様が浮かび上がってくる。

 

 豪奢な金色の額縁の中に美しく切り取られた、雨晴海岸の女岩と、海の上に神々しく聳え立つ三千メートル級の立山連峰。

 そして、その下部に刻まれた凛とした文字――。

 

 ――[氷見線・氷見/下車前途無効・車窓絵画の奇跡 完了]

 

 カチリと澄んだ音が響き、切符の光が静かに収まった。

 硬券は、まるで高岡の純錫のぐい呑みのように柔らかく、そして井波彫刻の木肌のように温かい感触を、宗助の掌に残していた。

 

「スタンプが、灯りましたね」

 べるもんたが優雅に微笑み、宗助を見つめた。

「滝沢さん。……あなたの心の暗室に、もう一度、真実の光が満ちました。……これから、東京へお戻りになりますか?」

「ああ」

 宗助は迷いのない瞳で頷いた。

 

「東京へ帰って、暗室に入るよ。……そして、今朝、あの雨晴海岸で撮った最後の一コマを、自分の手で丁寧に現像する。……あの光を焼き付けた写真を、二人の娘たちへ送るつもりだ。『お父さんは、世界中を回って、最後にこんなにも温かい光を見たよ。お前たちのことを、一度たりとも忘れたことはなかった』って……手紙を添えてな」

「きっと、届きますわ。……お嬢様方の心にも、あなたの撮られた真実の光が」

「ありがとう、べるもんた。……あんたと、この富山の山と海に出会えて、本当によかった」

 

 宗助は深く頭を下げ、そしてライカを首に掛け直した。

 その足取りは力強く、カメラマンとしての第二の人生へと向かって、迷いなく歩み出していた。

 

 * * *

 

 ホームに一人残ったべるもんたは、遠ざかる宗助の背中を、愛おしそうに見送っていた。

 ふと、宗助が別れ際に待合室の木製ベンチから拾い上げて手渡してくれた、一冊の古い文庫本に目を落とした。

 

 前の乗客が置き忘れていったのだろうか。

 表紙には、穏やかな青い波の絵と、素朴な題名が刻まれていた。

 

 ――『金子みすゞ童謡集』。

 

 べるもんたがそっとページをめくると、一篇の有名な詩が目に飛び込んできた。

 

『――朝焼け小焼けだ 大漁だ

 大羽鰯の 大漁だ。

 

 浜は祭りの ようだけど

 海の底では 何万の

 鰯のとむらい するだろう。』

 

「……大漁、ですか」

 べるもんたのインディゴブルーの瞳が、静かに波打った。

 大正から昭和初期にかけて、山口県仙崎(せんざき)の港町で、目に見えない小さな命、打ち捨てられた魚や草花の命に誰よりも深く寄り添い、二十六歳の若さで命を絶った悲劇の童謡詩人――金子みすゞ。

 

 その詩集の余白に、青いインクで、震えるような文字が走り書きされていた。

 『――誰も私を見てくれない。私の絵なんて、ただの消費されるゴミだ。海へ還りたい』

 

「あら……?」

 べるもんたが視線を上げ、西の空を見つめた。

 北陸の海から、さらに西へ。

 山陰本線の果て、山口県の日本海沿岸へと続く鉄路の向こうから、切なくも凛とした、潮騒と詩の気配が風に乗って漂ってきた。

 

 陽炎揺らめくレールの彼方。

 エメラルドグリーンの響灘(ひびきなだ)の入り江に、一編成の白い気動車が佇んでいた。

 かつて山陰本線を駆け抜けた観光列車『みすゞ潮彩』の魂を受け継ぎし、幻の海風列車。

 

 そしてそのデッキの傍らに、一人の少女が佇んでいた。

 白とマリンブルーのセーラー風和装。

 藍染めの絣の帯に、小さな貝殻の根付。

 胸元に一冊の詩集を抱きしめ、儚げでありながら、その瞳の奥に日本海の荒波のような強靭な光を湛えた鉄娘――**みすず**。

 

 みすずは遠く北陸のべるもんたへ向けて、静かに一礼してみせた。

 その涼やかな唇が、風に乗って囁くように動いた。

 

『――べるもんたさん、お疲れ様でした。……次は、山陰の青き海。言葉の刃に傷つき、己の描く意味を見失った若き絵師が、長門の波打ち際へと迷い込んでまいります』

 

 べるもんたは緑のドレスの裾を整え、西の空へ向けて優雅に微笑み返した。

 

「ええ、頼みましたよ、みすずさん。……目に見えぬ命の尊さを歌うあなたの言の葉で、迷える小鳥の心を、温かく包み込んであげなさいな」

 

 富山湾の立山連峰が、白銀の光を放って微笑んでいた。

 老兵の魂を救済した光のバトンは、次なる舞台――詩情と哀愁が満ちる「山口・長門と仙崎」へと、確かに手渡されたのだった。

 

 

(第十七章 べるもんたと雨晴の残照 ――完)

(第十八章『みすずと幻の青き入り江 〜波の上の詩、長門湯本の夜咄〜』へつづく)

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