第180話:義経岩の残照、ファインダーの向こうに笑う家族
夜が明け、東の空がゆっくりと濃紺から淡い藤色、そして燃え立つような茜色へとグラデーションを描き始めていた。
早朝五時。
宗助とべるもんたは、再び氷見線の雨晴駅で列車を降り、海辺の渚――『義経岩』の前に立っていた。
文治三年(1187年)、源頼朝の追手を逃れて奥州平泉へと落ち延びる義経一行が、にわか雨が晴れるのを武蔵坊弁慶とともに待ったという伝説の巨岩。
岩の上には小さな義経社が鎮座し、潮風に洗われた松の木が、海に向かって枝を伸ばしている。
ザザザザァァァ……ザザザザァァァ……。
引き波が砂利を洗う澄んだ音。
そして――水平線の向こう、標高三千メートルの立山連峰の頂が、昇り始めた太陽の最初の光を受け止めた。
――カッと、白銀の峰々が輝いた。
ただの白ではない。
山頂の万年雪が、朝焼けの光を浴びて、燃えるような薔薇色――アルピニストたちが神の奇跡と呼ぶ『モルゲンロート(朝照)』に染まり上がったのだ。
海面は鏡のように穏やかで、富山湾全体が淡い真珠色のヴェールをまとい、女岩のシルエットが朝靄の彼方に神々しく浮かび上がっている。
「……息を呑むほど、美しいな」
宗助は呟いた。
寒さのせいではない。あまりの美しさに、全身が震えていた。
その時だった。
渚の波打ち際を、一組の家族が歩いていく姿が、宗助の視界に入った。
若い父親と、白いワンピースを着た母親。
そして、二人の真ん中で手を繋ぎ、砂浜をピョンピョンと飛び跳ねている、四歳くらいの小さな女の子。
『パパ、見て! お山がピンク色だよ!』
『本当だ、綺麗だね。ママ、カメラ貸して!』
『もう、パパったら落とさないでよ?』
風に乗って届く、他愛のない笑い声。
父親が女の子をヒョイと肩車し、母親が二人の姿をスマートフォンで撮ろうとして、波に足元を濡らしてきゃっと声を上げる。
三人で顔を見合わせ、声を上げて笑い転げる。
「……っ!」
宗助の心臓が、激しく跳ね上がった。
胸を、鋭利な刃物で抉られたような激痛が走った。
――フラッシュバック。
三十年前。
長女が生まれたばかりの頃。
一度だけ、妻と幼い娘を連れて、近所の公園へ出かけた日のこと。
あの時も、娘は同じように笑っていた。
『パパ、お写真撮って!』
だが、その時、宗助のポケットのポケベルが鳴ったのだ。
海外特派員としての緊急召集。中東で戦争が勃発したという知らせ。
宗助は娘の手を振り解き、公園に妻と子を残したまま、一度もシャッターを切らずに成田空港へと走り出した。
それ以来、家族で公園に行った記憶は、二度となかった。
「……俺は……何をしてきたんだ……」
宗助の目から、熱い涙がボロボロと零れ落ちた。
「世界を救うなんて大義名分を掲げて……俺は、自分の手の中にあった、このかけがえのない光を……全部、踏みにじってきたんじゃないか……!」
宗助は膝をつきそうになった。
首のライカM3が、鉛のように重く首に食い込む。
「滝沢さん」
べるもんたが静かに膝を折り、宗助の視線の高さに自らの目を合わせた。
そのインディゴブルーの瞳には、一切の咎めも、哀れみもなかった。
ただ、大いなる母のように、宗助の四十年の後悔を丸ごと包み込む、無償の愛の光があった。
「滝沢さん。……カメラを構えなさい」
「……え?」
「構えるのです。あなたのそのライカを」
べるもんたは宗助の震える手を掴み、ライカの真鍮のボディへと導いた。
「あなたは、過去をやり直すことはできません。先立たれた奥様にも、離れて暮らすお嬢様方にも、失われた三十年をそのまま返すことはできません。……でもね、滝沢さん。だからといって、あなたが『光を愛すること』まで諦めてはいけません」
べるもんたは浜辺の家族を指差した。
「見てごらんなさい、あの光を。……世界中の悲劇を見届けてきたあなただからこそ、あの家族の笑顔が、どれほど壊れやすく、どれほど尊い奇跡なのか……世界で一番深く分かっているはずです。……憎しみや悲劇を告発するだけの写真なら、誰にでも撮れます。でも、闇を潜り抜けた者にしか撮れない、『光への祈りの写真』が、確かにあるのです!」
「光への……祈りの写真……」
「そうです! 下関の職人さんが命を削って削り出した真鍮リング。倉敷の青年が縫い上げた一号帆布。そして、あなたが四十年間命を懸けて研ぎ澄ませてきた、その眼……。すべての魂を込めて、今、目の前にある奇跡を、フィルムに焼き付けなさい!」
宗助の背筋が、カッと熱くなった。
震えていた指先が、不思議なほど静まり返った。
宗助はゆっくりと立ち上がった。
ライカM3を両手で持ち上げる。
下関の職人が削ったズミクロンの絞りリングを、カチリと回す。
ピントリングを回し、二重合致式のファインダーを覗き込んだ。
――ファインダーの向こう。
朝焼けの薔薇色の光を浴びて、立山連峰が神々しく聳え立っている。
雨晴の白波が、黄金色に輝きながら砕け散っている。
そしてその渚の真ん中で、父親の肩車の上で、小さな女の子が満面の笑顔で天を指差し、母親が慈愛に満ちた瞳で二人を見つめていた。
宗助の心臓の鼓動と、波のリズムが、完全に一つに重なり合った。
息を止め、静かに、優しく、人差し指でシャッターボタンを押し込んだ。
――カシャリ。
絹が擦れ合うような、澄み切った乾いたシャッター音。
真鍮のギアが噛み合い、フィルムが一コマ、光を吸い込んだ。
その瞬間、宗助の頬を伝っていた涙が、朝日に照らされてキラリと輝いた。
「……撮れた」
宗助の口から、掠れた声が零れた。
「……撮れたよ、母さん。……俺、やっと……光が……撮れたよ……」
カメラを下ろした宗助の顔には、四十年間張り付いていたあの険しい苦悩の影は、どこにもなかった。
まるで、雨晴の朝霧が完全に晴れ渡ったかのように、澄み切った穏やかな笑顔が浮かんでいた。
宗助の魂は、立山連峰の光の中で、完全に救済されたのだった。




