第179話:紅ズワイガニの甲羅焼き、氷見の漁港に灯る命の篝火
終点・氷見駅に到着した頃には、富山湾の空はすっかり濃紺の夜の帳に包まれていた。
駅前からべるもんたに案内され、海沿いを歩くこと十分。
辿り着いたのは、昼間のセリの喧騒が嘘のように静まり返った氷見漁港の一角、海に向かって赤提灯を掲げる魚市場直営の炉端処『浜焚火』だった。
木造の土間の中央には、赤々と熾った炭火の炉端が切られ、網の上では大振りのサザエやホタテがジュウジュウと湯気を吹き上げている。
「いらっしゃい! べるもんたの嬢ちゃん、待っとったぞ! ……おっ、そっちの旦那が、東京から来た写真家の先生かい!」
出迎えてくれたのは、顔中を深い皺と潮焼けで覆った、岩のように頑強な老漁師――源吉(げんきち / 70歳)だった。
頭に巻いた白いねじり鉢巻が、炭火の光を浴びて赤く染まっている。
「源吉さん、こんばんは! 今日はね、世界中の海を越えて旅をしてこられた、大切な旅人さんをお連れしたの」
「ほほう、世界中かい! そりゃあ大したもんや。だがな、世界中どこを回ったって、うちの富山湾の紅ズワイより美味いカニはありゃせんぞ! 旦那、腰を下ろしな!」
源吉に促され、宗助は厚手の丸太スツールに腰を下ろした。
すると源吉は、厨房の冷水槽から、茹で上げたばかりの真っ赤な大振りの紅ズワイガニを丸ごと一匹取り出し、豪快に甲羅をパカッと外してみせた。
――フワァァァッ……!
立ち上る甘い湯気。
甲羅の裏側には、深緑色をした極上のカニ味噌が、まるで翡翠のペーストのようにたっぷりと湛えられていた。
源吉は太い指先でカニの脚からギッシリと詰まった純白の身を解し、その甲羅のカニ味噌の中へと惜しみなく投入した。
そして――。
「これに、高岡の勝駒の純米酒を、ちょいとひと垂らしするんや!」
源吉が一升瓶から酒をひと回しかけると、甲羅をそのまま炭火の網の上へとドンと据えた。
――ジューーーーーッッ! グツグツグツッ……!
「……っ!?」
宗助の鼻腔を、凄まじい香気が直撃した。
炭火で熱せられた甲羅から立ち上るのは、焦げた甲殻類の香ばしさと、沸き立つ純米酒の甘い麹の香り。
甲羅の中で、濃厚なカニ味噌とジューシーなカニ身が、グツグツと激しく泡を吹きながら溶け合っていく。
「へいお待ち! 氷見漁師直伝――『紅ズワイガニの甲羅焼き』や! スプーンで底からグチャグチャにかき混ぜて、熱いうちに口へ放り込みな!」
木のスプーンを渡された宗助は、息を吹きかけながら、泡立つカニ味噌とカニ身をたっぷりとすくい上げた。
そのまま、躊躇うことなく口の中へと運ぶ。
――ハフッ、ジュワワワワワァァァッッ!!
「……ッッッ!?」
宗助の目から、火花が散った。
言葉が出ない。
濃厚。あまりにも濃厚で、あまりにも暴力的で、それでいて果てしなく気品のある旨味の塊。
カニ味噌の持つ、ほろ苦くビターなコクと、海のミネラル。
そこに、紅ズワイガニ特有の強烈な甘みを持つみずみずしいカニ身が絡み合い、勝駒の純米酒がすべての味の輪郭を一つに束ね上げている。
舌の上に触れた瞬間、脳の快楽中枢が直接痺れるような、圧倒的な幸福感。
「……美味い……っ! なんだこれ……っ、カニ味噌が、まるで極上のクリームシチューのように濃厚だ……!」
「がははは! 美味いやろ!」
源吉が豪快に笑い飛ばした。
「紅ズワイはな、水深八百メートルから千メートルもの極深海に棲んどるんや。深海の冷たい水圧に耐え抜いて生きとるから、身にたっぷりと甘いエキスを蓄えとる。……それをな、こうやって殻ごと火で炙って食うのが、一番贅沢な命のいただき方なんや!」
宗助はスプーンを止められず、二口、三口と甲羅焼きを口へ運んだ。
食べ進めるうちに、甲羅の内側に張り付いた味噌が炭火で少し焦げて、香ばしい「お焦げ」へと変わっていく。
そのお焦げをスプーンで削ぎ落として味わうと、香ばしさが倍増し、至福の溜息が漏れた。
「旦那、いい顔になってきたな」
源吉がヤカンから熱い番茶を注いでくれながら、温かい眼差しで言った。
「最初店に入ってきた時はな、まるで幽霊みたいに青白い顔しとったが……美味いもんを食うて、汗をかけば、人間なんてのは誰でも生き返るもんや」
「……そうだな」
宗助は湯呑みを両手で包み込んだ。
「俺は、頭の中で小難しいことばかり考えていたよ。『何のために生きてきたのか』『誰の役に立ったのか』って……」
「アホくさ!」
源吉は一喝して笑った。
「人間なんてな、美味い魚を獲って、美味い酒を飲んで、家族や仲間のために笑っていりゃあ、それだけで満点や! 役立たずの人間なんて、この世には一人もおらん。……海が魚を育てるように、人間もな、誰かに生かされ、誰かを生かして生きとるんや」
誰かに生かされ、誰かを生かして生きている。
下関の旋盤職人の真鍮。
倉敷の若者の帆布バッグ。
富山湾の漁師たちが命がけで獲ってきたカニ。
すべてが繋がっている。
自分は決して、一人で生きてきたのではなかった。
「源吉さん、ごちそうさま。……本当に、美味かった」
宗助が深く頭を下げると、源吉はポンと宗助の肩を叩いた。
「おう! またいつでも来な! 氷見の海は、いつでもお前を待っとるぞ!」
べるもんたが静かに立ち上がり、夜の海を指差した。
「滝沢さん。……夜が明ければ、雨晴海岸に、再び奇跡の朝の光が昇ります。……あなたのライカで、本当の最後の奇跡を、見届けにまいりましょう」




