第178話:三十年破れぬ一号帆布、倉敷の若き血が守り抜いた命
下関の旋盤職人の魂に心を震わせた宗助は、ふと思い出したように、肩から斜め掛けにしていたあのオリーブドラブ色の極厚帆布カメラバッグを、カウンターの上に静かに降ろした。
――ドサリ。
金属が入っているわけでもないのに、布とは思えない重厚な音が響いた。
角という角は擦り切れ、無数の雨風と紫外線を吸い込んで白茶けたヴィンテージの風合い。
表面には、無数の引っかき傷やオイルの染み、泥の飛沫の痕跡が刻み込まれ、真鍮のリベットは黒く酸化している。
「……このバッグもそうだ」
宗助は愛おしそうに、バッグのフラップの分厚い生地を撫でた。
「十年前、中国山地を取材していた時、新見の古い写真館の店先に置かれていたのを見つけてな。地元の高校生が試作品として縫って置いていったものだと聞いて、一目で惚れ込んで譲ってもらったんだ」
宗助はフラップをめくり、内ポケットの隅を見せた。
そこには、不器用な焼き印で、小さくアルファベットが刻まれていた。
――『S. MIZUKI #001』
「十年……いや、俺にとっては三十年分もの戦場を、こいつと一緒に潜り抜けてきた。……最新のハイテクナイロンバッグが、砂漠の熱で溶け、藪に引っかかって裂け、ファスナーが壊れていく中で、この岡山・倉敷の一号帆布のバッグだけは、一度たりとも破れず、中のライカとフィルムを完全に守り抜いてくれた」
宗助は目を細め、過酷な記憶を手繰り寄せた。
「中東の市街戦で、至近距離で手榴弾の爆風を浴びた時がある。爆風で吹き飛ばされ、瓦礫の下敷きになったが……背中に背負っていたこのバッグの極厚帆布が防弾チョッキのような盾になって、飛んできた鋭利なコンクリートの破片を受け止めてくれた。背中に背負ったこのバッグがなかったら、俺の脊椎は真っ二つに砕けていた」
宗助の指先が、ショルダーストラップの付け根を強く握りしめた。
「ヒマラヤの氷河を取材中、雪庇が崩れてクレバスに滑落しかけた時もそうだ。真っ暗な氷の底へ落ちていく瞬間、この分厚いショルダーストラップが、氷壁の尖った岩の突起にガチリと引っかかって、俺の体重と機材を支えてくれたんだ。……このバッグがなかったら、俺の命はとっくにあの氷の底で終わっていたのさ」
宗助はべるもんたを見つめた。
「どこの誰が作ったのかも知らん。……だが、この不器用で、硬くて、重いバッグを縫い上げた若者の執念が、俺の命を、文字通り何度も救ってくれたんだ」
べるもんたは微笑み、その瞳を優しく潤ませた。
「そのバッグを作った青年のお名前はね、水木蒼太さんというのですよ」
「……え?」
宗助は目を見開いた。
「知っているのか、べるもんた……!?」
「ええ。よく知っておりますわ」
べるもんたは頷いた。
「蒼太さんはね、倉敷で創業百年の老舗『水木帆布』の跡取り息子さんです。……高校生の頃、お父さんの頑固な職人気質に反発して、工場の端材の一号帆布を盗み出し、『俺だって作れる』と指から血を流しながら徹夜で縫い上げたのが、まさにその『試作第一号バッグ』だったのです」
「あいつが……あの高校生が、水木蒼太……」
「はい。蒼太さんはその後、東京へ出てファストファッションの軽さと安さに魂を奪われ、挫折して故郷へ逃げ帰りました。……でもね、伯備線を走る新型特急『やくも』の旅を経て、彼は気付いたのです。お父さんが命を懸けて織り続けてきた極厚の一号帆布の偉大さに。そして――世界の最前線で、自分の縫ったバッグを肌身離さず愛用し続けてくれた、あなたという偉大なカメラマンの存在に!」
「俺の……存在に……?」
「そうですわ、滝沢さん!」
べるもんたの声が、誇らしげに車内に響いた。
「新見の写真館で、あなたの話を聞いた蒼太さんは、人目も憚らず大号泣したそうです。『俺の作った布は、ゴミじゃなかった。世界の最前線で、カメラマンの命を守る盾になっていたんだ!』と。……そして今、蒼太さんは倉敷の実家の工場へ戻り、お父さんの一号帆布を背骨にした、現代の新しいバックパックを縫い上げるために、ミシンを踏み鳴らしていますよ!」
「……っっっ!!」
宗助の唇が激しく震えた。
全身を駆け巡る、熱い電流のような感動。
(俺が……命を救われただけじゃなかったのか……)
自分が三十年間、泥と埃にまみれながら使い倒したこのバッグが。
遠い倉敷の地で、挫折の底に沈んでいた一人の若者の魂を救い、再び前を向かせるための「希望の光」になっていたのだ。
「命は……繋がっていたんだな……」
宗助はバッグのフラップに額を押し当てた。
下関の旋盤職人が削った真鍮のレンズ。
倉敷の若者が縫い上げた極厚の帆布バッグ。
そして、それらを携えて世界中の闇を切り取り続けた、自分というカメラマンの四十年。
すべては無駄ではなかった。
職人たちの祈りと、自分の執念と、次の世代へと受け継がれる希望が、一本の太い糸のように固く結ばれ、この富山湾の青い海へと辿り着いていたのだ。
「滝沢さん」
べるもんたが優しく微笑んだ。
「列車はまもなく、終点・氷見へ到着いたします。……命のバトンを受け取ったあなたに、氷見の海の男たちが、最高の宴を用意して待っておりますよ!」




