第177話:ズミクロンの真鍮リング、下関の旋盤職人が遺した半欠け星
氷見線の線路は、雨晴海岸の白波をすぐ横に見下ろしながら、北へと進んでいく。
車内のカウンターテーブルで、宗助は言われるがままに、首から下げていた愛機――ドイツ・ウェッツラー製のクラシックカメラ『ライカM3』を外した。
一九五〇年代に製造された、精密機械工学の最高峰。
無骨な四角いボディの角という角は、長年の摩擦によって黒いクロームメッキが剥がれ落ち、下地の真鍮が滑らかな黄金色の光沢を放っている。
そして、そのマウントに装着されていたのは、写真史にその名を轟かせる伝説の標準レンズ――『ズミクロン(Summicron)50mm F2・沈胴式』だった。
「四十年……いや、俺が二十代でこれを中古で手に入れてから、四十年以上になるな」
宗助は愛おしそうにレンズの鏡胴を撫でた。
「中東の砂漠の砂嵐の中でも、零下三十度のシベリアのブリザードでも、最新の電子式オートフォーカスカメラは全部バッテリーが死に、回路がショートして動かなくなった。……だがな、この完全機械式のライカだけは、一度たりともシャッターが切れなくなったことはねえ。俺の命と、俺が見た光のすべてを、こいつがフィルムに焼き付けてくれたんだ」
「滝沢さん。……そのズミクロンのレンズを、ボディから外して見せていただけますか?」
べるもんたが静かに促した。
宗助は手慣れた手つきでバヨネットマウントのロックボタンを押し、レンズを反時計回りにクイッと捻って外した。
金属の重みを持つレンズブロック。
宗助は絞りリングのローレット(滑り止めのギザギザ)に指をかけ、カチカチと回してみせた。
――カチッ、カチッ、カチッ……。
驚くほど精密で、シルクの上を指先で滑らせているかのような、絶妙なクリック感。
一切のガタつきも遊びもなく、半世紀以上前のものとは思えない滑らかさだった。
「……実はな、このレンズには、俺も知らなかった秘密があるんだ」
宗助はレンズのリアキャップを外し、鏡胴の絞りリングの裏側――真鍮の金属パーツの内側を、カウンターの照明にかざした。
「手に入れてから二十年ほど経った頃、アフリカの現場で泥水に落としちまってな。東京の腕利きのカメラ修理職人にオーバーホールを頼んだんだ。その時、職人が驚いた顔で教えてくれたのさ。『滝沢さん、このレンズの絞りカムの真鍮リング、オリジナルのドイツ製じゃないですよ。日本の誰かが、手作業で削り出して特注で組み込んだパーツです』ってな」
べるもんたが身を乗り出し、その真鍮リングの内側を凝視した。
――そこには。
肉眼では見落としてしまうほど極小の、コンマ数ミリの細工鏨で手作業によって刻まれた、一つの紋様があった。
――『小さな、半欠けの星のマーク』。
「……あっ!」
べるもんたが思わず息を呑み、インディゴブルーの瞳を大きく見開いた。
「やっぱり……! その半欠けの星……!」
「あんた、このマークを知っているのか?」
宗助が訝しげに眉を寄せると、べるもんたは震える声で語り始めた。
「ええ……! 知っているどころではございませんわ! ……山口県下関市。本州の西の果てで、戦前戦後の日本の鉄道と産業を支え続けてきた伝説の旋盤職人――工藤鉄工所の先々代、工藤恭平さんの曾祖父様が遺された、世界に一つだけの屋号の刻印です!」
「下関の……旋盤職人……?」
宗助は耳を疑った。
「そうです! 終戦直後、物資も金属も徹底的に不足していた時代、その職人さんは、蒸気機関車や軍艦のスクラップから掘り出した最高品質の真鍮の端材を使って、ミクロン単位の狂いすら許されないカメラレンズの精密部品を、手回しの旋盤一台で削り出したのです。……どんな過酷な現場でも絶対に狂わず、滑らかに回り続けるようにと、己の魂を込めて……!」
べるもんたの言葉が、宗助の脳天を雷鳴のように直撃した。
「下関の、名もなき旋盤職人が……このレンズを……?」
「そうですわ、滝沢さん!」
べるもんたは宗助の手を両手で包み込んだ。
「あなたが世界中の戦場で命を懸けてシャッターを切っていた時、あなたの指先を支え、光の絞りを完璧に制御していたのは……遠い日本の片隅で、汗と油にまみれながら鉄と真鍮を削り続けた、日本の職人の魂だったのです! ……あなたの写真は、あなた一人の手で撮ったものではありません。このレンズを削った職人の祈り、そしてそのカメラを信じて命を預けたあなたの執念が、一つになって生み出した奇跡だったのですよ!」
「……っっっ!!」
宗助の全身に、鳥肌が立った。
喉が熱く締め付けられ、視界が滲んでいく。
自分は、孤独な一匹狼だと思っていた。
誰にも頼らず、誰の助けも借りず、ただ一人で世界の闇と戦ってきたと思い上がっていた。
だが、違ったのだ。
自分の指先の下には、会ったこともない下関の職人が、ミクロン単位の精度で削り出してくれた真鍮のリングがあった。
あの職人が、真鍮に命を吹き込んでくれたからこそ、砂嵐の中でも、氷点下のブリザードの中でも、このズミクロンは一度も狂わずに光を捉え続けることができたのだ。
「職人さん……あんたが、俺の眼を支えてくれていたのか……」
宗助はレンズを胸に抱きしめ、天を仰いだ。
四十年間の孤独の重荷が、カランと音を立てて崩れ落ちていくようだった。
自分は決して一人ではなかった。
日本の名もなき職人たちの魂が、常に自分の背中を、その無言の技術で支え続けてくれていたのだ。




