第176話:銘酒『勝駒』の純米、寡黙な蔵人が醸す一途な酒
富山湾の至宝たる握り鮨の余韻が口の中に広がる中、べるもんたが一升瓶を両手で抱え、宗助の目の前に据えられたあの能作の純錫のぐい呑みへと歩み寄った。
一升瓶のラベルには、無骨で力強い筆文字で、たった二文字が刻まれていた。
――『勝駒』。
「滝沢さん。この富山湾の寿司に合わせる、最高の一杯をご用意いたしました。高岡の町はずれ、古い町並みの中に佇む清都酒造場が生み出す、幻の純米酒『勝駒』でございます」
べるもんたがトクトクと無色透明の酒を注ぐと、錫の器の表面に、キュッと冷たい結露の粒子が浮かび上がった。
「勝駒……? 酒好きの仲間から名前だけは聞いたことがあるが、東京じゃ滅多にお目にかかれない酒だな」
「ええ。富山県内で最も小さな酒蔵の一つでしてね。年間の生産量は極めて少なく、杜氏をはじめとする数人の蔵人たちだけで、目が行き届く範囲の手造りにとことんこだわり抜いて醸されているのです。大都市へ大量出荷することなど一切考えず、地元の人々と、この味を愛する人々のためにだけ造られ続けている、一途なお酒ですよ」
宗助は手の中の純錫の器を持ち上げた。
掌に合わせて自在に形を変えた盃は、宗助の親指と人差し指の窪みに、吸い付くようにしっくりと馴染んでいた。
器を鼻先に近づける。
――スゥッ……。
不思議な香りだった。
近年の吟醸酒にありがちな、派手なパイナップルやメロンのような華やかすぎるフルーツ香ではない。
どこまでも穏やかで、庄川の清冽な伏流水を思わせる清澄な立ち香の中に、ふわりと奥ゆかしい米本来のふくよかな香気が潜んでいる。
盃に唇をつけ、静かに一口を含んだ。
――スッ……クッ……。
「……っ!?」
宗助は思わず目を見張った。
舌の上に落ちた瞬間、水のように滑らかで、一切の引っかかりや抵抗感がない。
だが、喉の奥へと滑り込む直前、口中の温度で温められた酒から、じわりと力強い米の旨味と、キリリとした爽快な酸味が湧き上がってきたのだ。
純錫の器のイオン効果が雑味を完全に消し去っているため、味わいはどこまでも純粋で、透明な水晶のよう。
そして喉を通った瞬間――スパーンと見事な切れ味で余韻が消え去り、舌の上には清々しい静寂だけが残った。
「……美味いな。……驚くほど、澄み切っている」
宗助は感嘆の溜息を漏らした。
「媚びた甘さがねえ。流行りの派手な香りもない。……だが、芯に揺るぎない力強さがある。愚直なまでに真っ直ぐで、職人の頑固な息遣いが伝わってくるようだ」
「ええ、その通りですわ」
べるもんたが嬉しそうに頷いた。
「清都酒造場にはね、代々受け継がれてきた家訓があるのです。『小さな酒蔵だからこそ、目の届く酒を造る。酒の味は、誤魔化しがきかない』と。……世間の流行がどれほどフルーティーな甘口へと流れても、勝駒は一切ブレることなく、実直に、自分たちの信じる『純米の旨さ』を磨き続けてきました」
べるもんたは宗助の横顔を見つめ、静かに語りかけた。
「滝沢さん。……あなたの写真も、この『勝駒』と同じだったのではないでしょうか?」
「俺の写真が……?」
「ええ。流行りの美しい観光写真や、広告の華やかな笑顔を撮れば、もっと楽に、もっと安全に大金を稼げたはずです。家庭を壊すこともなく、誰からも恨まれずに済んだはずです。……でも、あなたはそうしなかった。危険を顧みず、世界中の誰も行きたがらない戦場の泥沼へ飛び込み、現実の過酷な光と影を、一切の妥協なくフィルムに焼き付け続けた」
べるもんたのインディゴブルーの瞳が、宗助の心の奥底を優しく照らし出す。
「世間に媚びず、ただひたすらに真実の光だけを追い求めてきたあなたの四十年の歩みは……この酒のように、愚直で、実直で、誰よりも純粋だったはずです。……どうして、そんな尊いご自身の人生を、『誰一人として救わなかった』などと否定なさるのですか?」
「べるもんた……」
宗助の声が震えた。
「俺は……俺の写真は……」
宗助は盃を強く握りしめた。
錫の金属が、再びピキピキと微かな音を立てる。
喉の奥に広がる勝駒の清冽な温もりが、宗助の頑固な心の奥に固く閉ざされていた扉を、一枚、また一枚と静かに押し開いていくようだった。
「滝沢さん。……あなたのその首にかかった相棒を、見せていただけませんか?」
べるもんたがそっと宗助の胸元を指差した。
「四十年もの間、あなたとともに世界を駆け巡り、あなたの命を支え続けた、その奇跡のカメラの真実を……今こそ、思い出していただく時ですわ」




