第175話:富山湾の白えびと寒ブリ、車内で握る黄金の寿司
雨晴の海を右手に望みながら走る『べるもんた』の車内。
木製のパノラマカウンターの奥に、白木の一枚板の俎板を据えた、本格的な付け場(調理台)が姿を現した。
白衣に身を包み、清潔な白の板前帽をかぶった熟練の寿司職人――友成(ともなり / 58歳)が、キリリとした手つきで出刃包丁を拭い、宗助に向かって深々と一礼した。
「いらっしゃいませ。走る額縁へようこそお越しくださいました。……富山湾の今朝獲れの海の幸、心を込めて握らせていただきます」
「車内で……寿司を握るのか?」
宗助は目を丸くした。
全国の観光列車でも、あらかじめ駅弁のように仕出しで作られた寿司を配る列車は多い。
だが、時速数十キロで揺れる気動車の車内で、本職の寿司職人が乗客の目の前で魚を切り、シャリを合わせ、一貫ずつ手渡しで握る列車など、前代未聞だった。
「ふふっ、これこそが『べるもんた』が全国に誇る、最大の贅沢の一つでございますのよ」
べるもんたが誇らしげに微笑み、カウンターの木箱の蓋を開けた。
氷が敷き詰められた木箱の中に、宝石のように整然と並べられた富山湾の獲れたての魚介たち。
深海から湧き上がる冷たく清らかな海洋深層水と、立山連峰から雪解け水とともに流れ込む豊富なミネラルが育んだ、「天然の生け簀」富山湾の奇跡の恵み。
「ではまず、一貫目をお出しいたしましょう」
職人の友成が木桶から、富山県産米『てんたかく』と地酢で仕立てたツヤツヤのすし飯を指先でふわりとすくい取った。
パリッとした富山湾産の海苔を巻き、その上にピンセットのような金箸で、こぼれんばかりに山盛りに盛り付けたのは――淡い桜色に透き通る、極小のエビの身だった。
「富山湾の至宝――『白えび(シロエビ)』の軍艦巻きでございます。……富山湾の深海に湧く海洋深層水から作られた天然塩を、ひと振りしてございます。お醤油はつけず、そのままどうぞ」
カウンターの笹の葉の上に置かれた一貫。
宗助は指先で軍艦を持ち上げた。
驚くほど透明度が高い。
白えびの一尾一尾の体長はわずか五センチ足らず。
その小さな殻を、職人たちが夜明け前から一尾ずつ手作業で剥き上げたものだ。
口の中へと運ぶ。
――スッ……トロリ……。
「……っ!?」
噛む必要などなかった。
舌の上に触れた瞬間、海苔の香ばしい磯の香りを突き破り、白えびの身が淡雪のようにサラリと溶け出したのだ。
そして次の瞬間、爆発的な濃厚さを持った、上品でクリーミーな甘みが口の中全体を満たした。
海老特有の生臭さやエグ味は皆無。
パラリと振られた海洋深層水の塩が、白えびの持つ糖分のアミノ酸を極限まで引き締め、舌の奥へと甘美な余韻を残して消えていく。
「……っ! なんだこれ……! エビが、溶けたぞ……!? 甘い……信じられないくらい甘い!」
「ふふっ、驚かれたでしょう」
職人の友成が嬉しそうに目尻を下げた。
「白えびはね、世界中でもここ富山湾の海底谷でしか商業漁獲されない、まさに奇跡のエビなんです。生きている時は完全に透明で、光を浴びてキラキラと輝くことから『富山湾の宝石』と呼ばれています。手作業で殻を剥くからこそ、身を傷つけず、このとろけるような甘みが生きるのです」
職人は間髪を入れず、二貫目のネタを俎板の上に乗せた。
鮮やかな真紅の甲羅から剥き出された、純白と茜色の美しいカニの身。
新湊漁港で昼セリにかけられたばかりの、新鮮極まりない『紅ズワイガニ』。
シャリの上にカニ身をふんわりと乗せ、その天頂に、深い緑褐色をした濃厚なカニ味噌をちょんと載せる。
「二貫目、紅ズワイガニでございます」
宗助は指でつまんで口へ放り込んだ。
――ジュワッ、フワッ……!
「……う……美味い……ッ!」
カニ身から溢れ出す、ジューシーでみずみずしい天然のスープ。
そして、カニ味噌のビターでコク深い野生の旨味がシャリの酸味と溶け合い、鼻腔へと抜ける芳醇な香気!
そして――真打ちの登場だった。
友成が包丁を斜めに滑らせ、柵から切り落とした大判の切り身。
それを見た瞬間、宗助の目が釘付けになった。
――『氷見の寒ブリ』。
冬の荒れ狂う日本海を回遊し、越冬のために富山湾の定置網へと迷い込んできた天然のブリ。
淡いピンク色の赤身の全体に、まるで最高級の霜降り牛肉のように、極めて細かな純白のサシがびっしりと走っている。
職人が素早く手の中で反転させ、自家製の煮切り醤油を刷毛でサッとひと塗りする。
だが、その醤油が、肉の表面の強烈な脂によって弾かれ、水滴となってコロコロと転がるほどだった。
「お待たせいたしました。富山湾の王者――氷見の天然ブリ、腹身の大トロでございます」
宗助は震える指でブリを掴み、口の中へ放り込んだ。
――ブチュッ……ジュワワワワワァァァッッ!!
「……っっっ!?」
言葉が出なかった。
噛み締めた瞬間、強烈な弾力を持つ身の繊維から、極上のオレイン酸を含んだ脂が、まるで温かい出汁のように溢れ出してきたのだ。
マグロの大トロのような重苦しいクドさは微塵もない。
冷たい荒波で鍛え上げられた筋肉の引き締まりと、日本海の豊かな小魚を食べ尽くして蓄えられた、極限までピュアな脂の甘み。
シャリがハラリとほどけ、煮切り醤油の深いコクと一体となって、喉の奥へと滑らかに吸い込まれていく。
「……ああ……美味い……っ。なんだこれ……俺の知ってるブリと、次元が違いすぎる……!」
宗助は目を閉じ、深く息を吐いた。
喉を通ったあとも、胸の奥底がポカポカと温かい生命力で満たされていく。
「滝沢さん」
べるもんたが静かに盃を差し出した。
「富山湾の命たちはね、険しい立山連峰が海へと注ぐ急峻な地形と、厳しい冬の風雪に耐え抜いたからこそ、これほどまでに気高く、甘く、力強い命を宿すのです。……苦難に耐えた命だけが放つ、本物の輝き……。美味しかったでしょう?」
「ああ……」
宗助は頷いた。
「美味い……本当に、魂が震えるほどに美味いよ」
その目から、また一筋の熱い雫がこぼれ落ち、カウンターの白木の上に小さく吸い込まれていった。




