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第174話:雨晴海岸の白波、海越しに聳え立つ三千メートルの銀嶺

高岡を出発した『べるもんた』は、万葉の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)が国司として赴任し、数々の名歌を詠んだ伏木(ふしき)の港町を抜け、越中国分(えっちゅうこくぶ)駅を過ぎると、いよいよ富山湾の海岸線すれすれの断崖へと躍り出た。

 

「滝沢さん。……前方を、ご覧になってください」

 

 べるもんたが静かに声を落とした。

 気動車のディーゼルエンジンが唸りを鎮め、列車は時速十キロメートルほどの、歩くような極低速へと速度を落とした。

 

 カーブを曲がり切った、その瞬間だった。

 

「……っ!?」

 

 宗助の喉から、声にならない息が漏れた。

 全身の毛穴が総毛立ち、背筋を電撃のような戦慄が駆け抜けた。

 座席から立ち上がり、思わず車窓のガラスに額を押し付けていた。

 

 そこは――雨晴(あまはらし)海岸。

 

 金色の額縁の向こうに広がっていたのは、人間の言葉による描写を完全に拒絶するような、地球の奇跡そのものの光景だった。

 

 手前には、白砂青松の美しい渚と、寄せては砕け散る純白の波頭。

 富山湾の深く澄み切ったインディゴブルーの海原の上に、松の木を冠のように戴いた『女岩(めいわ)』が、まるで海原の守り神のようにポツリと浮かんでいる。

 

 だが、その海の向こうだった。

 海を隔てて水平線の遥か彼方――遮るもののない大気の上に、突如として天を衝くようにそびえ立っていたのは、雲海を突き破る標高三千メートル級の巨大な山脈――**『立山連峰(たてやまれいぽう)』の神々しい銀嶺**だった!

 

 剣岳、立山三山、別山、大日岳。

 初夏の陽光に照らされ、初夏の残雪を戴いた純白の岩肌が、青空と海の間に巨大な白銀の屏風のように聳え立っている。

 標高ゼロメートルの海面から、視界を遮る前山が一切ないまま、いきなり三千メートル級の峻峰が垂直に立ち上がる地形。

 海越しに冠雪した大山脈を望むことができる景観は、世界中を探しても、チリのアンデス山脈を望むフィヨルドか、ここ日本の富山湾雨晴海岸だけと言われる、唯一無二の絶景だった。

 

「……ああ……っ」

 宗助の唇が震えていた。

 

 海の水蒸気が光を乱反射させ、青い海と白い連峰の間に、淡い真珠色の陽炎がヴェールのように揺らめいている。

 白と青。

 神が創りたもうた、最も純粋で、最も荘厳な色彩の調和。

 

「三十年ぶりだ……」

 宗助の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。

 

「三十年前……まだ駆け出しのカメラマンだった俺が、結婚したばかりの妻を連れて、この氷見線に乗ったんだ。『いつか世界一の写真家になって、お前に大きな家を建ててやる』って……大口を叩きながらな。……妻は、あの女岩を見つめて、『家なんていらないわ。あなたが無事でいてくれれば、それだけでいいのよ』って……笑っていた……」

 

 宗助の手が、無意識に首のライカM3を握り締めていた。

 

「それなのに俺は……妻の言葉を忘れ、家庭を捨て、世界の血と涙ばかりを追いかけた。……何万人もの死者の顔を撮り、何千枚もの戦争の写真を紙面に載せながら……一番近くにいた妻の笑顔すら、一枚もまともに撮ってやれなかったんだ……!」

 

 宗助の拳が、痛いほどに震えた。

 

「このカメラはな、血を吸いすぎたんだ。……この美しい雨晴の海に、こんな穢れたレンズを向けることなんて、俺にはできねえよ……!」

 

「滝沢さん」

 べるもんたが静かに歩み寄り、宗助の震える肩に、そっと手を置いた。

 その手のひらは、雨晴の波のように柔らかく、温かかった。

 

「カメラは、血を吸ったりいたしません。……レンズはただ、そこにある光を、ありのままにフィルムへと届けているだけです」

「だが……!」

「あなたが切り取ってきた数々の悲劇の写真はね、決して無駄な悪業などではございませんよ」

 

 べるもんたは額縁の窓の外――立山連峰の頂を指差した。

 

「あの厳しい冬の豪雪と、切り立った岩壁があるからこそ、立山連峰はこれほど気高く輝くのです。……あなたが戦場で命がけでシャッターを切り、世界に真実を突きつけ続けたからこそ、どれほど多くの人々が戦争の愚かさを知り、平和の尊さに気付かされたことでしょう。……あなたの背負ってきた影の深さがあるからこそ、今、あなたの目の前に広がるこの光が、これほどまでに胸を打つのではありませんか?」

 

「俺の……影の深さ……」

 

「そうです。……光を知るためには、深い闇を知らねばなりません。……世界中の闇を見届けてきたあなただからこそ、この富山の海が放つ『真実の光』を、世界で一番深く受け止めることができるのです」

 

 ガタタン……と列車が再び動き出し、富山湾の青い風が車内へと吹き込んできた。

 宗助の胸の奥で、三十年間凍りついていた何かが、ピキピキと音を立てて微かに溶け始めていた。

 

「さあ、滝沢さん。……魂を震わせた後は、富山湾が誇る本物の命の輝きを、胃袋で味わっていただきましょう」

 べるもんたが優雅にカウンターへと促した。

「走る額縁の奥で、富山湾の宝石たちが、あなたを待っておりますよ!」

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