第173話:高岡銅器の錫ぐい呑み、手のひらで曲がる柔らかな金属
散居村の夕景を抜けた列車は、加賀前田家二代当主・前田利長が築いた城下町であり、四百年の鋳物の歴史を誇る富山県高岡の市街地へと差し掛かっていた。
車内のカウンターテーブルに、べるもんたが桐箱から取り出した一つの小さな金属の器をコトリと置いた。
それは、鈍い銀白色の光沢を放つ、手のひらに収まるほどの小ぶりな盃――ぐい呑みだった。
銀のようにギラギラと光を反射することなく、まるで月光を吸い込んで静かに蓄えているかのような、落ち着いたマットな質感。
「滝沢さん。どうぞ、その器をお手に取ってみてください」
「……ん? 銀の盃か?」
「いいえ、銀ではございません。……高岡銅器四百年の伝統から生まれた、純度百パーセントの『錫』の器でございます」
宗助は無骨な指先を伸ばし、その器を持ち上げた。
ずっしりとした手応え。
見た目の小ぶりさからは想像もつかないほど重厚な重量感がある。
だが、宗助が息を呑んだのは、次の瞬間だった。
「……あっ!?」
指先に少し力を込めた瞬間、盃の縁が――まるで硬めの粘土か厚手の革のように、グニャリと音もなく内側へと曲がったのだ。
――ピキピキ……ピキピキッ……。
耳を澄ますと、金属の内部から、氷がきしむような微かで澄んだ音が聞こえてきた。
宗助は慌てて力を緩めた。
「し、しまった! 壊しちまったか!? すまん、握力が強すぎて……」
「ふふっ、驚かれましたか? 壊れたのではございませんよ」
べるもんたが鈴を転がすように笑った。
「いま聞こえた『ピキピキ』という微かな音はね、『ティン・クライ(錫鳴き)』と呼ばれる現象なのです。純粋な錫の結晶格子が、変形する際に互いに擦れ合って鳴く、金属の命の産声なのですよ」
「金属が……手で曲がるのか? なんの熱も加えていないのに……」
宗助は目を丸くした。
「ええ。普通、世の中の金属製品――真鍮やブロンズ、ステンレスや銀製品はね、硬さを出すために他の金属を数パーセントから数十パーセント混ぜた『合金』にして作られます。もし混ぜ物をすれば、金属は硬く頑丈になりますが、その分、脆くなり、強い衝撃でパキンと割れてしまいます。……ですが、この能作の器は、一切の混ぜ物をしない『純度百パーセントの錫』だけで鋳造されているのです」
べるもんたは宗助の手元を指差した。
「純粋な錫は、極めて柔らかく、大人の指先の力だけで、自分の手や唇の形に合わせて自在に変形させることができます。……硬いことだけが、強さではありません。どんな相手の掌にも、自らの形を変えてそっと寄り添う……。それこそが、この金属の持つ、究極の優しさと強靭さなのです」
「自らの形を変えて……相手に寄り添う……」
宗助は曲がった盃の縁を、親指でゆっくりと元の形へと押し戻した。
金属は反発することなく、再び素直に美しい丸みを取り戻した。
割れる気配も、亀裂の一筋すら入っていない。
「さらにね、滝沢さん。錫には、古くから『お酒の雑味を抜き、水を腐らせない』という不思議な力があると言い伝えられてきました」
べるもんたは切子のピッチャーから、冷たい富山の名水をその錫の器へと注いだ。
「どうぞ、一口召し上がってみてください」
宗助は盃を口元へ運んだ。
唇に触れた瞬間、金属特有の嫌な鉄臭さや錆びた匂いが全くないことに驚いた。
ひんやりとした清涼感とともに、水が喉へと滑り落ちていく。
「……! 角がねえな。驚くほどまろやかだ」
「ええ。錫の高いイオン効果が、液体の中の不純物や雑味を吸着し、味の角を取って、まろやかな旨味だけを引き出してくれるのです」
べるもんたは宗助の深く刻まれた眉間を見つめた。
「滝沢さん。……あなたは今まで、あまりにも硬く、あまりにも頑丈な鋼の鎧を身に纏いすぎてこられたのではありませんか?」
「……俺の、鎧……?」
「ええ。戦場で生き残るために、感情を殺し、涙を封じ、鉄のように硬い心でファインダーを覗き続けてこられた。……でもね、硬すぎる金属は、強い衝撃を受けた時、いつか修復不能なほどに砕け散ってしまいます」
べるもんたの声が、宗助の頑なな胸の奥底へと染み渡っていく。
「もう、硬い鎧を脱ぎ捨ててもよろしいのですよ。……この錫のように、力を抜き、他人の温もりに合わせて心を柔らかく撓らせること……。それは弱さではなく、人間が最後に辿り着くべき、本当の愛の形なのですから」
宗助は掌の中の冷たい錫の器をぎゅっと握りしめた。
金属の冷たさの奥から、自らの体温がゆっくりと器へと移り、じんわりと温かくなっていく。
(俺は……硬すぎたのか……)
妻が寂しそうに微笑んだあの日も。
娘たちが泣きながら背中を向けたあの日も。
自分は「男の仕事だ」「俺は世界のために戦っているんだ」と、頑固な鎧を纏って、一切自分を曲げようとしなかった。
相手の痛みに寄り添うための柔らかさを、自分から捨て去っていたのだ。
ガタタン、ゴトトン……。
列車は高岡駅で方向を変え、いよいよ日本海へと向かう氷見線へと進入していった。
車窓の外には、薄暮の空の下、富山湾の青い潮の香りが、風に乗って微かに漂い始めていた。




