第172話:走る美術館、井波彫刻の格子と木漏れ日
車内へと一歩足を踏み入れた瞬間、宗助の鼻腔をくすぐったのは、まるで深山幽谷の社寺に迷い込んだかのような、重厚で清々しい「木の芳香」だった。
通路の床には落ち着いた木目調のフローリングが敷き詰められ、片側には富山湾の雄大なパノラマを望むための横向きベンチシート、もう片側にはゆったりとしたボックスシートが配置されている。
だが、宗助の足を止めさせたのは、シートの配置ではなかった。
客室の至る所に施された、息を呑むほど精緻な木彫りの装飾群だった。
「……ほう。これは……」
宗助は思わず手を伸ばし、頭上の吊革の吊り手に触れた。
通常の通勤電車のようなプラスチックの輪ではない。
手触りの良い天然木の持ち手、そしてその付け根の金具を覆うように、手のひらサイズの立体的な木彫細工が施されていた。
彫り出されているのは、空を翔ける白鳥や、波間に遊ぶカモメ、そして風にたなびく瑞雲。
さらには、客室の間仕切り壁には、透かし彫りで見事な松や山並みが彫り込まれており、外からの光がその隙間を通り抜けて、床の上に複雑で美しい影の文様を落としていた。
「お気付きになられましたか。……富山県南砺市が世界に誇る伝統工芸――『井波彫刻』でございます」
べるもんたが静かに寄り添い、間仕切りの彫刻を愛おしそうに指先でなぞった。
「江戸時代中期、京都の名刹・東本願寺の焼失に伴い、本山から井波の瑞泉寺へと派遣された彫刻師・前川三四郎の技を起源とする、二百五十年の歴史を持つ木彫りの技です。……井波の職人たちは、なんと二百種類以上ものノミを自在に使い分け、下絵を描かずに木の中に眠る命を掘り起こすのですよ」
宗助は身を屈め、彫刻の表面を凝視した。
カメラマンとして、何十年も「物の表面の光と影」を見つめ続けてきた宗助の眼は誤魔化せない。
「……機械の刃物じゃねえな。サンドペーパー(紙やすり)も一切使っちゃいねえ」
「その通りです」
べるもんたのインディゴブルーの瞳が、誇らしげに輝いた。
「現代の大量生産の家具や木工品は、やすりをかけてツルツルに均してしまいます。でも、井波彫刻は違います。職人が研ぎ澄ました鋭利なノミの刃先だけで、最後の仕上げまで一気に削り落とすのです。……木肌に残る無数の刃の跡――『ノミ目』。この微細な凹凸があるからこそ、光が木肌の上で複雑に乱反射し、木が呼吸しているかのような、温かく深みのある陰影が生まれるのです」
宗助は、ノミ目の残るケヤキの木肌をそっと指先で撫でた。
滑らかでありながら、どこか皮膚のような温かい引っかかりがある。
「均一で平らなものには、光は宿らない……か」
宗助の口から、無意識に言葉が零れた。
「写真も同じだ。……傷ひとつない完璧なスタジオライティングで撮ったポートレートより、皺だらけの老人の顔や、瓦礫の陰に差し込む一筋の斜光の方が、遥かに多くの真実を語る」
「ええ、その通りですわ、滝沢さん」
べるもんたは微笑み、海側のパノラマカウンター席を指差した。
「どうぞ、こちらのお席へ。……走る額縁が、最初の絵画をご用意いたしました」
宗助が木製のハイチェアに腰を下ろした瞬間、列車はガタタンと心地よい揺れとともに走り出した。
城端線から氷見線へと向かう道中、車窓に広がったのは、息を呑むほど長閑で美しい日本の原風景だった。
――砺波平野の『散居村』。
初夏の夕暮れ時、広大な平野の一面を埋め尽くす水田。
田植えを終えたばかりの水田には、満々と澄んだ水が張られ、巨大な水鏡となって夕焼け空のグラデーションをそっくりそのまま映し出している。
その水鏡の海の中に、島のように点々と浮かぶ、屋敷林――『カイニョ』と呼ばれる杉や竹の防風林に囲まれた、白壁のアズマダチ(東建て)農家。
民家と民家が数百メートルも離れて点在する、日本で唯一の奇跡的な集落景観。
そして――。
べるもんたの窓枠にあしらわれた、金の額縁。
列車が時速五十キロののんびりとした速度で水田地帯を走り抜けるにつれ、その額縁の中に切り取られた散居村の風景が、一秒ごとに光の角度を変え、色合いを変え、まるで一枚の巨大な印象派の油彩画のように、ドラマチックに表情を変えていく。
「……なんて、穏やかな光だ……」
宗助は息を止めて、その額縁の窓を見つめた。
夕陽が水田の水面を黄金色に染め上げ、カイニョの木々の隙間から、農作業を終えた老夫婦が手を繋いで家路につく姿が見えた。
そこには、爆撃の煙も、血の匂いも、飢えた人々の叫び声もない。
ただ、大地を耕し、日々の糧に感謝し、静かに命を繋いできた人間の、何百年も変わらない営みの美しさだけがあった。
「滝沢さん。……あなたのライカを、構えてみませんか?」
べるもんたが囁いた。
宗助の手が、無意識に首のライカM3へと伸びた。
だが――指先がシャッターボタンに触れた瞬間、胸を焼くような激しい罪悪感が宗助の手を止めた。
「……駄目だ。俺の手は、血塗られた悲劇ばかりを撮ってきた薄汚い手だ。……こんな清らかな光に、レンズを向ける資格なんてねえよ」
宗助は自嘲の笑みを浮かべ、カメラを下ろした。
べるもんたは何も言わず、ただ深く澄んだ瞳で宗助を見つめ、静かに夕暮れの額縁を見守っていた。




