第171話:新高岡駅の黄昏、額縁を纏う緑の列車
北陸新幹線と城端線が交差する富山県新高岡駅。
初夏の黄昏時、西の空が紫紺から茜色へと移り変わる中、滝沢宗助(たきざわ そうすけ / 65歳)は、在来線連絡通路のベンチに深く腰を下ろし、吐息を漏らしていた。
六十五歳。
先月末、四十年近く勤め上げた大手通信社を定年退職した元報道カメラマン。
その白髪混じりの無精髭に覆われた顔には、世界中の激動を駆け抜けてきた男特有の深い年輪が刻まれていた。
くすんだツイードのジャケットの肩には、無数の引っかき傷と泥の染み、黒ずんだ真鍮リベットが打ち込まれたオリーブドラブ色の極厚帆布カメラバッグ(※第十四章で水木蒼太が縫い上げた試作第一号バッグ)が、ずっしりと掛けられている。
そして首からは、四十年間あらゆる戦場を共にしてきた相棒――塗装が剥げて真鍮の下地が黄金色に露出したレンジファインダーカメラ『ライカM3』がぶら下がっていた。
「……あのお嬢ちゃんは、無事に飛べただろうか」
宗助の脳裏に、昨夜、関西国際空港の展望デッキで出会ったあの若い女子大生――成瀬結衣の姿が過った。
怯え、逃げ出し、それでも「向かい風」の言葉を受け止めて瞳に光を宿した少女。
彼女には、まだこれから羽ばたく未来がある。
「だが……俺には、もう何もない」
宗助は乾いた自嘲を漏らし、ライカの巻き上げレバーに親指をかけた。
四十年。
中東の瓦礫の下で泣き叫ぶ子ども、飢餓に苦しむアフリカの大地、東日本大震災の津波の跡、チェルノブイリの静寂――。
世界中の「決定的な瞬間」を切り取るため、宗助は命を削ってシャッターを切り続けてきた。
国際的な報道写真賞を何度も受賞し、業界では「生きる伝説」と持て囃された。
だが、その栄光の代償はあまりにも大きすぎた。
一年の大半を海外の戦場で過ごし、家庭を完全に顧みなかった宗助を、妻は責めもせず、ただ静かに病で先立った。
二人の娘たちは「お父さんは、赤の他人の不幸ばかり撮って、私たちを見てくれなかった」と、母の葬儀の日に宗助を激しく罵り、それ以来、十年以上も絶縁状態が続いている。
退職後、東京の自宅の暗室で、数十万コマに及ぶ過去のネガフィルムを見つめ直した時、宗助の胸を襲ったのは、誇りではなく、底知れぬ吐き気と虚無感だった。
(俺は一体、何を撮ってきたんだ……?)
自分の撮った写真が一面を飾っても、戦争は止まらなかった。
飢餓で痩せ細った赤ん坊は、シャッターを切った数時間後に息を引き取った。
俺は、人の死や絶望を切り売りして、給料と名声を掠め取っていただけの、浅ましいハイエナだったのではないか――。
この富山の海で、ライカの中に装填された最後の一本の白黒フィルムを撮り切ったら、このカメラを海に投げ捨てて、カメラマン人生を完全に終わらせよう。
かつて三十年前、新婚旅行で妻と一度だけ訪れた、あの雨晴海岸の海を見届けて――。
そう決意して、宗助は北陸へやってきたのだった。
ふと、ツイードのジャケットの内ポケットが、ジワリと熱を帯びた。
指先を滑り込ませると、そこにあったのは、関空駅の改札口でいつの間にか紛れ込んでいた、あの一枚の見覚えのない硬券切符――『風の切符』だった。
厚紙の切符が、初夏の若葉のような深いエメラルドグリーンの光を放ち、温かく脈打っている。
「……なんだ、この切符は……」
宗助が眉をひそめた瞬間、城端線の単線ホームから、低く温かみのある気動車のエンジン音が響いてきた。
――フォォォォォン……。
夕闇が迫るホームに、滑るように入線してきた一両の深緑色のディーゼルカー。
その姿を一目見た瞬間、宗助の目が釘付けになった。
深い森と海を思わせる、深遠なエメラルドグリーンの車体。
窓の周囲には、まるで西洋の名画を飾るピクチャーフレームのように、豪奢で洗練された金色の額縁が幾重にもあしらわれている。
JR西日本が富山の誇りを結集して生み出した、走る美術館――観光列車『ベル・モンターニュ・エ・メール(べるもんた)』だった。
プシューとドアが開き、ステップの上に、一人の女性が優雅に姿を現した。
深いエメラルドグリーンのクラシカルなロングドレス。
ドレスの胸元には、精緻な木彫りの白鳥と瑞雲のブローチ。
耳元には、鈍く柔らかな光を放つ金属のイヤリング。
そしてその双眸――富山湾の最も深い海底を思わせる、澄み切った神秘的なインディゴブルーの瞳が、ベンチに座る宗助を、慈愛を込めて見つめていた。
「ようこそ、富山の美しき山と海へ。……滝沢宗助さん、お待ちしておりました」
「あんたは……?」
「私は『べるもんた』。車窓という額縁を通して、この大地の一瞬の光を切り取る、旅の案内人です」
べるもんたは絵筆を収めた革のホルダーを腰に当て、深々と一礼した。
その佇まいからは、何十万枚もの光と影を見届けてきた芸術家だけが持つ、静謐で揺るぎない気品が漂っていた。
「滝沢さん。……その使い込まれたカメラと、肩の帆布バッグ……そして、世界中の痛みをその身に吸い込んできたあなたの深い皺。……お見受けしただけで、あなたがどれほど過酷な光を追ってこられたか、痛いほどによく分かります」
「ふん……俺の過去を詮索するな。俺はただ、最後の写真を撮りに来ただけだ」
宗助が無骨に目を逸らすと、べるもんたはふわりと微笑んだ。
「最後とお決めになる前に、どうぞ、この車窓の額縁の前に腰掛けてみてください。……あなたが今まで見落としてこられた、この世界の『本当の光』を、お見せいたしますから」
拒む言葉を失った宗助は、べるもんたに導かれるようにして車内へと足を踏み入れた。
そこは、列車の客室という概念を遥かに超えた、木の香りと温もりに満ちた、極上のサロン空間だった。




