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第170話:桜の切符、雨晴の海に立つ孤高のカメラマン

午前六時十五分。

 関西空港駅の改札口前は、早朝の便で世界各国へと旅立つバックパッカーやビジネスマン、家族連れの旅行客たちで、活気を取り戻し始めていた。

 スーツケースを引き、改札機の手前に立った結衣の表情には、昨日のあの怯えや過呼吸の面影は微塵もなかった。

 

 その時、結衣のコートの胸ポケットが、カッと熱い光を放った。

 

「あ……っ!」

 

 取り出したあの厚紙――『風の切符』。

 抜けるような青空の色をした硬券が、朝日のような眩いスカイブルーと純白の光を放ち始めた。

 切符の中央に、見えない印鑑が力強く押し当てられたかのように、ジジジ……と音を立てて朱色の紋様が浮かび上がってくる。

 

 大空へと向かって力強く主翼を広げるジェット機のシルエットと、満開の桜の花びら、そして海を渡る特急はるかの優美な先頭車両。

 下部に刻印された凛とした文字――。

 

 ――[関西空港線・関西空港/下車前途無効・大空への飛翔 完了]

 

 カチリと澄んだ音が響き、切符の光が静かに収まった。

 硬券は、まるで泉州タオルのようにふんわりと柔らかく、そして紀州備長炭のように凛とした温もりを、結衣の掌に残していた。

 

「スタンプが、灯ったわね」

 はるかが誇らしげに微笑み、結衣の肩に手を置いた。

「あなたの心の滑走路は、もう真っ直ぐに大空へと繋がったわ。……迷わずに、飛び立ちなさい!」

「はい!」

 結衣は満面の笑みで頷いた。

 スマートフォンを取り出し、実家の母へ短いメッセージを送る。

 

『お母さん、備長炭のお守り、ありがとう。私、行ってきます。泥だらけになって、笑顔で帰ってくるね!』

 

 送信ボタンを押すと、すぐに母から『いってらっしゃい。体に気をつけてね』と、温かい返信が届いた。

 

「はるかさん、本当にありがとうございました。……私、向かい風を味方にして、高く飛んできます!」

「ええ! いってらっしゃい、結衣!」

 

 結衣はスーツケースのハンドルを握り締め、颯爽と国際線出発ロビーのエスカレーターへと駆け上がっていった。

 その背中には、もう迷いなど何一つなかった。

 

 * * *

 

 改札口の前に一人残ったはるかは、折り返しの京都行き特急の出発を待ちながら、ふうと息を吐いて微笑んでいた。

 銀の帯留めを指先で撫で、改札口を行き交う旅人たちを見守る。

 

「……いい旅立ちだったわ。大空の風も、あの子の翼を優しく押し上げてくれるはずよ」

 

 その時だった。

 駅のコンコースの電光掲示板に、新大阪駅からの接続案内が流れた。

 

『――新大阪駅より、北陸方面・特急サンダーバード号……敦賀にて北陸新幹線、富山方面へのお乗り継ぎ……』

 

「あら……?」

 はるかが視線を上げた。

 

 朝の光が差し込むコンコースの向こうに、一人の長身の老紳士が歩いているのが見えた。

 ツイードのジャケットに、首から下げた真鍮枠のライカM3。

 そして、肩から斜め掛けにされた、無数の傷と泥を吸い込んだオリーブドラブ色の極厚帆布カメラバッグ――。

 昨夜、展望ホールで結衣に「向かい風の教え」を授けてくれた、あの元報道カメラマン・滝沢宗助だった。

 

 宗助は新大阪行きの特急列車のホームへと向かいながら、ふと立ち止まり、北の空を見上げた。

 その瞳の奥には、長年の激動の取材を終えた者の、深い孤独と虚無感が微かに宿っていた。

 

「……北陸、か。……俺の写真は、誰を幸せにしたんだろうな……」

 

 宗助の呟きが、風に乗って消えていく。

 

 はるかの視線の先――遥か北陸、富山湾の青い海が、陽炎の彼方に蜃気楼のように浮かび上がっていた。

 雨晴(あまはらし)海岸の白い波頭。

 海越しに聳え立つ、三千メートル級の立山連峰の神々しい銀嶺。

 そして、その風光明媚な富山湾の海沿いを走る、深いエメラルドグリーンの車体に金枠の額縁をあしらったクラシカルな観光列車――『ベル・モンターニュ・エ・メール(べるもんた)』。

 

 車窓の額縁の傍らで、絵筆とパレットを手にした優雅な鉄娘・**べるもんた**が、雨晴の潮風に緑のドレスを靡かせ、静かに微笑んでいた。

 

『――はるかさん、見事な旅立ちでしたね。……次は、立山連峰の銀嶺と、富山湾の奇跡の海。……激動の時代を駆け抜けて心に影を落とした老写真家に、二度と同じ表情を見せない“一瞬の光の絵画”をお見せいたしましょう』

 

 はるかは胸元の桜のかんざしを揺らし、北の空へ向けて凛と微笑み返した。

 

「ええ、頼んだわよ、べるもんた! あのおじさまの心のレンズに、最高の奇跡を焼き付けてあげなさいな!」

 

 大空へと飛び立つジェット機の轟音が、大阪湾の潮風を切り裂いて響き渡る。

 泉州の大地で助走を終えた魂のバトンは、次なる舞台――立山連峰の絶景と富山湾の美味が待ち受ける「雨晴と氷見線」へと、力強く手渡されたのだった。

 

 

(第十六章 はるかと大空への架け橋 ――完)

(第十七章『べるもんたと雨晴の残照 〜立山連峰の銀嶺、高岡銅器の響き〜』へつづく)

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