第169話:連絡橋の夕陽、大空へ向かって走り出す滑走路
夜が明け、東の生駒山系の向こうから、昇り始めた太陽が大阪湾の水面を茜色と黄金色に染め上げていた。
早朝五時四十分。
日根野駅から関西空港へと向かう、本日最初の上り特急『はるか』の先頭車デッキ。
結衣はそこに、凛として立っていた。
首には、泉州タオルの白くふんわりとしたハンドタオルを巻き、右手のポケットには、あの黒く澄んだ音を立てる紀州備長炭の勾玉をしっかりと握りしめている。
手元のスーツケースには、パスポートと、先ほどスマホで予約を取り直した――今朝八時発のバンコク行き航空券の二次元バーコードが表示されていた。
「顔つきが、ガラリと変わったわね。結衣」
隣に立つはるかが、スカイブルーの瞳を細めて微笑んだ。
紫紺の着物ドレスの裾が、初夏の朝風を孕んでふわりと翻る。
「ええ。……はるかさん、私ね、ずっと勘違いしていたの」
結衣は前を見据え、静かに語り始めた。
「私は、自分が立派な人間になって、可哀想な子どもたちを『助けてあげる』んだって、思い上がっていた。……周りの優秀な学生たちに負けたくなくて、英語が上手な自分、スマートな自分を演じようとして、勝手に息切れして逃げ出したの。……でも、違ったわ」
結衣は胸元の備長炭の勾玉を握りしめた。
「水ナスは、自分の弱さや傷を恐れずに、土の水を吸い尽くして甘くなった。泉州タオルは、すべての不純物を洗い流して、無垢な白さに戻ることで人の涙を吸い取れるようになった。がっちょは、泥臭い骨をさらけ出すことで、誰よりも人を喜ばせる力になった……」
結衣は振り返り、はるかの目を見つめた。
「私には、高度な国際金融の知識も、ネイティブのような英語力もない。……でも、私には、お母さんがくれたこの備長炭のような真っ直ぐな祈りがある。泉州の土と人が教えてくれた、泥臭い温もりがある。……英語なんて、下手くそでいい。発音なんて、笑われたっていい。……私は、泥水の中で生きる子どもたちと同じ目線で、一緒に泥だらけになって、一緒に泣いて、一緒に笑いたい! あの子たちの冷えた手を、私のこの温かい手で、力いっぱい握りしめに行きたいの!」
「……ふふっ」
はるかは口元に誇らしげな笑みを浮かべ、クリスタルタブレットを腰に当てた。
「言ったわね、結衣。……だったら、見せてあげるわ! 関空特急『はるか』の、本当の疾走を!」
――キィィィィィン……ッッ!!
運転台のマスコンが最大ノッチへと叩き込まれた。
281系の四基の主電動機が、咆哮のような高周波を轟かせ、車輪がレールを猛烈な勢いで噛み砕く。
――ガタタン、ゴトトン! ガタタン、ゴトトン!
列車は泉佐野の地上線を抜け、海の上へと架かる巨大なトラス橋――関西国際空港連絡橋へと躍り出た。
時速百二十キロ、百二十五キロ、百三十キロ!
左右の窓一面に広がる、朝焼けの光を浴びて紅蓮に燃え立つ大阪湾の大海原。
海風がトラスの鉄骨を激しく揺さぶり、ゴオオオオッという凄まじい風圧が車体を包み込む。
「見てごらんなさい、結衣! これが向かい風よ!」
はるかが叫んだ。
「海からの強烈な向かい風が、私たちの正面を打ち据えているわ! でも、線路を踏みしめ、スピードを上げれば上げるほど……この向かい風は、私たちを前へ、上へと押し上げる『翼の揚力』に変わるのよ!」
――ゴォォォォォォォォッッ!!
朝焼けの大空へ、一機の純白のエアバスA350が、連絡橋の真上を掠めるようにして、力強く天へと舞い上がっていった。
主翼が朝日に照らされ、黄金色に輝いている。
結衣は窓ガラスに両手を当て、その飛翔の姿を焼き付けるように見つめた。
胸の奥で、ドクン、ドクンと激しい鼓動が鳴り響いていた。
だが、それはもう恐怖の動悸ではなかった。
全身の細胞が目覚め、魂が大空へと羽ばたこうとする、歓喜の産声だった。
(飛べる……! 私だって、飛べる……!)
結衣の背中に、見えない純白の翼が、大きく、力強く広がっていく感覚があった。
向かい風を受け止め、恐れず、前を向いて助走をやり切った者だけに与えられる――飛翔の翼。
列車は連絡橋を疾走し、海上の巨大な人工島――関西国際空港の地下ホームへと、滑るように吸い込まれていった。
迷いは完全に消え去っていた。
ただ、大空の彼方に待つ子どもたちの笑顔へと向かって、結衣の魂は一直線に駆け出していた。




