第168話:泉州玉ねぎとがっちょの唐揚げ、大阪湾の泥臭い誇り
関空展望ホールで滝沢宗助の言葉を受け取った結衣は、はるかに連れられ、空港連絡橋を再び渡って対岸の港町――泉佐野漁港へとやってきていた。
夜の十時を回っているというのに、漁港の一角にある『青空市場』の周辺には煌々と裸電球が灯り、潮の香りと油の香ばしい匂いが立ち込めていた。
威勢のいい漁師言葉が飛び交う、赤提灯の立ち呑み処『浜の茶屋』。
「へいらっしゃい! はるかのお嬢さん、今日は随分遅いお出ましやな! ……おっ、そっちの若い姉ちゃんも、寒かったやろ! ストーブの前に座りな!」
ねじり鉢巻にゴム前掛けをした大将が、豪快な笑顔で迎えてくれた。
パイプ椅子に腰を下ろすと、冷えた身体に石油ストーブの熱気が心地よく染み渡る。
「大将! この子に、大阪湾の海の底の底まで味わえる、一番泥臭くて一番美味いもんを出してあげて!」
はるかが威勢よく注文した。
「よっしゃ任しとき! 今、ちょうど底引き網の獲れたてが揚がったところや!」
大将が中華鍋にたっぷりと張られた油の中に、粉をまぶした小魚を一気に投入した。
――バチバチバチッ! シュワワワワワァァァッッ!!
激しい油の跳ねる音とともに、香ばしい磯の香りが爆発した。
揚げ網で二度揚げされ、余分な油を切られて大皿に山盛りにされたのは、頭を落とされ、松葉のように開かれた小魚の唐揚げだった。
そしてその隣には、分厚く輪切りにされた野菜の天ぷらが、サクサクの衣を纏って並べられていた。
「へいお待ち! 泉佐野名物――『がっちょの唐揚げ』と、『泉州玉ねぎ』のかき揚げ天ぷらや!」
「がっちょ……? 変わった名前ですね」
結衣が首を傾げると、大将が豪快に笑った。
「標準語じゃ『メゴチ』っていう魚や。大阪湾の泥の底を這いずり回っとる、平べったいヌメヌメした不細工な底魚よ。……見た目は悪相でトゲがあってな、昔は誰も見向きもせん下魚やった。だがな、頭とハラワタを落として、骨ごとカリッカリに揚げたら、どんな高級魚の天ぷらも裸足で逃げ出す至高のツマミになるんや! レモンをキュッと絞って、熱いうちに齧り付いてみ!」
結衣は一切れを指でつまみ上げた。
狐色に揚がったがっちょ。
骨ごと一気に口の中へ放り込み、奥歯で噛み砕いた。
――ガリッ、ザクザクザクッ……!
「……っ!?」
結衣は目を見張った。
信じられない香ばしさだった。
太い中骨が、まるでスナック菓子のように心地よい音を立てて砕け散る。
そして、骨の香ばしさを突き破って溢れ出してきたのは、泥底を泳ぎ抜いた白身魚特有の、強烈な旨味と上品な甘みだった。
噛めば噛むほど、白身の繊維から上質なアミノ酸が染み出し、レモンの酸味と天然塩がその味を極限まで引き立てる。
「美味しい……! 全然生臭くない! 骨までサクサクで、旨味が口いっぱいに広がる……!」
「せやろ!」
大将が嬉しそうに頷いた。
「ほんでな、次はこの泉州玉ねぎを食うてみ!」
結衣は分厚い玉ねぎの天ぷらに箸を伸ばした。
衣に少しだけ出汁つゆをつけ、大きく一口かじる。
――サクッ、ジュワァァァッ……!
「……あ、甘い……っ!」
結衣は思わず声を上げた。
信じられない甘さだった。
玉ねぎ特有の辛みや刺激臭が、火を通すことで完全に消え去り、まるでフルーツを煮詰めたコンポートのように、濃厚でとろけるような甘い蜜のジュースとなって口の中に溢れ出してきたのだ。
「泉州はな、日本の玉ねぎ栽培の発祥の地の一つなんや」
大将が腕を組んで語る。
「水分が多くて、肉質が柔らかい。日持ちせえへんから全国にはあんまり出回らんが、その分、甘みと瑞々しさは日本一や。……がっちょの泥臭い力強さと、玉ねぎの包み込むような甘み。これが、大阪湾の底力よ!」
大将は冷たい生ビールのジョッキを結衣の前にドンと置いた。
結衣は泡を口につけ、喉を鳴らしてビールを流し込んだ。
クハーッと息を吐くと、胃袋が温かい幸福感で満たされていく。
「お嬢ちゃん、さっきはるかさんから聞いたで」
大将がカウンター越しに、温かい眼差しで結衣を見つめた。
「海外へ行って、子どもらの教育を助けに行くんやってな。……でも、周りが優秀すぎて怖くなったんやと?」
「……はい。英語も下手で、専門知識もなくて……」
「がははは! アホか、お前は!」
大将は腹を抱えて笑い飛ばした。
「英語がペラペラやから人が救えるんか? 賢い数式が解けるから子どもの涙が止まるんか? ……そんなもん、全部ただの道具やないか!」
大将は揚げたてのがっちょを指差した。
「見ろや、このがっちょを。見た目は不細工で、泥まみれで、トゲだらけや。だがな、腹を割って、熱い油に飛び込んで、骨まで全部さらけ出したら、こんなにも人を喜ばせる美味いもんになるんや。……人間も同じやろ! 不器用でええねん。泥臭くてええねん。大事なんはな、カッコつけんと、目の前で泣いとる人間のために、自分の骨まで差し出す覚悟があるかどうかやろ!」
――自分の骨まで、差し出す覚悟。
大将の怒鳴り声のような言葉が、結衣の胸に突き刺さり、熱い涙となって視界を滲ませた。
「英語なんて、身振り手振りでええ。ハートでぶつかれば、子どもらは絶対に笑ってくれるわ。……大阪湾の泥臭い底魚かて、こうやって堂々と胸張っとるんや。日本の若い娘が、何ビビっとるんや! 胸張って、海越えてこんかい!」
「……っ、はい……! はい……っ!」
結衣は涙を拭い、がっちょの唐揚げをもう一口、力強く噛み締めた。
サクサクと骨が砕ける音が、自分の中で燻っていた最後の迷いを、粉々に打ち砕いていくようだった。




