第167話:展望ホールの老紳士、向かい風を受け止める翼
阪南の浜辺で母の愛を受け取った結衣は、はるかに伴われ、夜の関西国際空港へと戻ってきていた。
だが、向かったのはあの逃げ出した出発ロビーではなく、連絡橋を渡った空港島の北端に位置する展望複合施設――関空展望ホール『スカイビュー』だった。
エレベーターで最上階のオープンデッキへと上がると、潮風とともに、巨大なジェットエンジンの轟音と、ケロシン(航空燃料)の焼ける独特の匂いが吹き寄せてきた。
「……わあ……っ」
結衣は思わずデッキの手すりに駆け寄った。
そこには、闇夜の中に浮かび上がる、息を呑むほど壮大な光の滑走路が広がっていた。
四千メートルのA滑走路とB滑走路。
誘導路の縁を彩る無数のエメラルドグリーンのライトと、滑走路の中心線を貫く純白の灯火、そして着陸進入灯の真紅の閃光。
漆黒の海の上に浮かぶその光の回廊を、世界中から飛来した巨大な旅客機たちが、車輪を軋ませて着陸し、また次なる大地へと向けて轟音とともに夜空へと吸い込まれていく。
「すごい……。夜の空港って、こんなにも美しいのね……」
「そうよ。世界中からやってくる人々の祈りと、世界中へと旅立つ人々の夢が、この光の線路の上で交差しているのよ」
はるかが誇らしげにスカイブルーの瞳を輝かせた。
ふと、結衣の視線が、少し離れた展望デッキのフェンス際に佇む一人の人影に留まった。
仕立ての良いくすんだツイードのジャケットに、白髪混じりの無精髭。
六十代半ばと思われる、長身で頑強な体躯の老紳士だった。
その老紳士の首からは、使い込まれて角の塗装が剥げ、下地の黄金色の真鍮が露出したクラシックなレンジファインダーカメラ――ライカM3が下げられていた。
そして何より、結衣の目を引いたのは、その老紳士が肩から斜め掛けにしていた、一つの大型ショルダーバッグだった。
――分厚く、武骨なオリーブドラブ色の帆布バッグ。
無数の引っかき傷と泥の染み、黒ずんだ真鍮のリベット。
まるで何十年もの間、世界中の戦場や嵐を潜り抜けてきたかのような、圧倒的な存在感を放つそのバッグ――。
(※第十四章で水木蒼太が高校時代に縫い上げ、新見の写真館で語り継がれていた、あの伝説の『一号帆布カメラバッグ』そのものだった!)
老紳士はファインダーを覗き、夜空へと上昇していく貨物機にシャッターを切ると、カシャリと静かな巻き上げ音を響かせた。
そして、結衣の方を振り返り、悪戯っぽく片目を細めた。
「お嬢ちゃん、いい風が吹いているな」
「え……? あ、はい……」
結衣が戸惑いながら会釈すると、老紳士は手すりに腕をかけ、海からの強風にジャケットの裾を靡かせた。
「だが、海風は冷えるだろう。……さっきから見ていたが、お嬢ちゃん、まるでこれから世界の果てへ放り出されるような、思い詰めた顔をしてるぜ」
「えっ……」
「俺はな、写真屋だ。……滝沢っていうんだがね。四十年近く、世界中の紛争地帯や難民キャンプ、極北の氷原をカメラ一台で駆けずり回ってきた。……何万人もの人間の顔をファインダー越しに見てきたからな。人の顔を見りゃあ、その人間が何を怖がっているかくらい、大体わかるのさ」
滝沢宗助(たきざわ そうすけ / 65歳)。
日本写真界の生ける伝説と謳われる元報道カメラマンだった。
「滝沢さん……私、今日、国際線の飛行機に乗るはずだったんです」
結衣は思わず、胸の奥に澱のように溜まっていた想いを吐露していた。
「東南アジアの子どもたちの支援に行くはずでした。でも……周りの優秀な人たちと自分を比べて、怖くなって……逃げ出してしまったんです。私には、海を越える資格なんてないんじゃないかって……」
滝沢は無言で煙草を取り出そうとし、禁煙マークを見て苦笑しながら胸ポケットへ戻した。
そして、滑走路の端へとゆっくりとタキシングしていく、一機のジャンボジェット機を指差した。
「お嬢ちゃん。……知っているか? 飛行機ってのはな、追い風じゃ絶対に飛べねえんだ」
「……え?」
「追い風ってのはな、後ろから優しく背中を押してくれるように思えるだろう? だがな、飛行機が後ろから風を受けると、翼の上を流れる空気の相対速度が落ちて、揚力を失って失速しちまうんだ。……飛行機が最も高く、力強く大空へと飛び立てるのはな、真正面から叩きつける『強烈な向かい風』を受けた時だけなんだよ」
滝沢の低くしゃがれた声が、風に乗って結衣の耳朶を打った。
「真正面から風圧を受けるからこそ、翼の上下に巨大な圧力差が生まれ、何百トンもの機体が大空へと押し上げられる。……人生も全く同じさ」
滝沢は肩のオリーブドラブの帆布バッグをポンと叩いた。
「周りからの期待、自分の無力さ、同期への劣等感、異国の地への恐怖……。そんなものはな、お前がこれから高く、遠くへ飛ぶために、神様が用意してくれた『最高の向かい風』なんだよ。……向かい風から逃げて後ろを向いちまえば、ただ風に吹き飛ばされて墜落するだけだ。だがな、歯を食いしばって、胸を張って、その向かい風のど真ん中に突っ込んでいきゃあ、お前の翼は自然と空へと浮き上がるのさ」
「恐怖が……最高の、向かい風……」
「そうだ。英語が下手? 専門知識がない? そんなもん、現地で子どもたちと泥水啜りながら、恥かいて覚えりゃいいんだよ。……俺が戦場で出会った本物の支援者たちはな、誰も小難しい理論なんて振りかざしちゃいなかったぜ。ただ、泣いている子どもの手を握り、一緒に泣き、一緒に笑っていた。……必要なのは、流暢な舌じゃねえ。向かい風から逃げない、真っ直ぐなハートだけだ」
ゴオオオオオオッッ!!
滑走路を時速三百キロで疾走したジャンボ機が、強烈な向かい風を両翼に受け、重力を嘲笑うかのように優雅に漆黒の夜空へと舞い上がっていった。
その機首は、迷いなく天を指していた。
結衣の胸の奥で、カチリとすべての迷いが氷解した。
劣等感に怯えていた自分が、恥ずかしかった。
向かい風を恐れる必要なんて、最初からどこにもなかったのだ。
この恐怖こそが、自分を高く飛ばせてくれるエネルギーだったのだから。
「……滝沢さん。ありがとうございます」
結衣が深く頭を下げると、老カメラマンは豪快に笑って手を振った。
「礼には及ばねえよ。……俺もな、明日から北陸の富山・氷見線へ行くんだ。立山連峰の向こうの海を見にな。……お互い、いい風を掴もうぜ、お嬢ちゃん!」
滝沢は肩のバッグを揺らしながら、夜のデッキを去っていった。
結衣の瞳には、先ほどまでの怯えは微塵もなかった。
夜空を切り裂く誘導灯のように、確固たる光が宿っていた。




