第166話:紀州備長炭の勾玉、母から手渡された黒きお守り
極上のなにわ黒牛を堪能した結衣とはるかは、夜の気配が濃くなり始めた阪南の海岸――せんなん里海公園の砂浜へとやってきていた。
波打ち際に立つと、遠く海を隔てた対岸に、光の帯となって浮かび上がる関西国際空港の誘導灯と、夜空へと飛び立つ航空機の光の尾が、星のように瞬いている。
ザザザザァァァ……ザザザザァァァ……。
寄せては返す潮騒の音。
夜風が結衣の髪を優しく撫でる。
結衣は砂浜にしゃがみ込み、自分のショルダーバッグのファスナーを開けた。
その一番奥底――パスポートのすぐ隣に、今朝、実家を出る時に母から手渡された、小さな縮緬の巾着袋が収まっていた。
『結衣。……これ、お母さんの一番大切な宝物なの。あなたがどうしても怖くなったり、道に迷ったりした時に、開けてみなさい。きっと、あなたを守ってくれるから』
駅の改札口で、母が結衣の掌を両手で包み込みながら託してくれた、小さな袋。
結衣は震える指先で、紫色の飾り紐を解いた。
中から滑り出てきたものを掌に載せた瞬間、結衣は目を丸くした。
「……あっ」
それは、石でも金属でもない、不思議な光沢を放つ小さな工芸品だった。
古代の勾玉の形に丁寧に削り出された、長さ四センチほどの漆黒の塊。
夜の帳の中でも、星明かりを吸い込んで鈍く、滑らかに輝いている。
触れてみると、驚くほど冷たく、硬い。
爪で軽く弾いてみると――。
――キィィィィィン……。
まるで最高級のクリスタルガラスか、白磁の風鈴を鳴らしたかのような、信じられないほど澄み切った高周波の金属音が、夜の浜辺に響き渡った。
「……えっ!? これ、炭……なの……? なんで炭から、こんな綺麗な鈴の音がするの……!?」
結衣の驚きの声に、隣に立っていたはるかが、そのスカイブルーの瞳を優しく細めて微笑んだ。
「……やっぱり、そうだったのね」
「はるかさん、これを知っているの?」
「ええ。知っているどころじゃないわ。……世界最高峰の木炭にして、和歌山の紀州が誇る至宝――『紀州備長炭』よ」
はるかは結衣の隣に腰を下ろし、その黒い勾玉を指先で愛おしそうに撫でた。
「しかもね、結衣。この勾玉は、ただの備長炭じゃないわ。……紀州の険しい山奥で、何十年も炭窯を守り続けてきた伝説の炭焼き職人――水野幸造さんと、そのお孫さんの健太くんが、魂を込めて一本一本手作業で削り出した、奇跡の守り刀よ」
「水野さん……お母さんが言っていたわ」
結衣の記憶が蘇った。
「母が若い頃、仕事で心身を擦り減らして倒れそうになった時、一人で紀州の南紀白浜を旅したって言っていた。その時、山の中で出会った炭焼きのおじいさんが、母に手渡してくれたのが、この勾玉だったの……」
「そうよ」
はるかは静かに頷いた。
「紀州備長炭の原料となるのはね、紀伊半島の切り立った断崖絶壁の岩場に自生する、ウバメガシというカシの木なの。栄養の少ない硬い岩山に根を張り、何十年も台風の暴風雨に耐えて育つから、その木質は信じられないほど高密度で、水に沈むほど重いのよ」
はるかの声が、波の音に溶け込んでいく。
「そのウバメガシを炭窯に入れ、煙の匂いと色だけを頼りに、職人さんが不眠不休で一週間以上も火を焚き続ける。そして最後に、窯の口を全開にして空気を一気に送り込み、なんと千度を超える猛烈な高温で一気に焼き上げるの。……その時、木の中に含まれていた不純物や水分、ガスが、すべて完全に焼き飛ばされるのよ」
「千度で……不純物を、焼き飛ばす……」
「そうよ。そして真っ赤に熾った炭を窯から引き出し、灰と砂を混ぜた消粉を素早く被せて急冷する。……その猛烈な熱と圧力によって、炭素の純度が極限まで高まり、木だったものが、まるでダイヤモンドのように結晶化して、鉄よりも硬い『白炭』へと生まれ変わるのよ」
はるかは結衣の手を包み込んだ。
「見てごらんなさい、この勾玉の表面を。……無数の、目に見えないミクロの孔が空いているわ。備長炭はね、自らの身を極限の火で焼き尽くしたからこそ、周囲の嫌な匂いや有害物質、水の濁りをすべて吸い込み、清らかなミネラルを放出する『浄化の力』を宿しているの」
はるかは結衣の瞳を見つめた。
「あなたのお母さんはね、結衣。この勾玉に、どんな祈りを込めたと思う?」
「お母さんの……祈り……」
「そうよ。世界という広大な海へ飛び立とうとする愛する娘が、現地の過酷な現実に直面しても、周囲の心無い言葉や自らの劣等感という濁りに呑まれないように……。この備長炭のように、すべての迷いを焼き尽くし、不純物を吸い取って、どこまでも清らかな心のままでいてほしい……。そう願って、この一番の宝物をあなたに託したのよ」
――キィィィィィン……。
風が吹き抜け、結衣の掌の中で勾玉が再び微かな音を立てた。
鼻先に近づけると、微かに香る、深い山と大地の清らかな炭の薫香。
それは、母がいつも結衣を抱きしめてくれた時の、あの温かく安心する匂いそのものだった。
「……お母さん……っ!」
結衣の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
砂浜の上に落ちる涙。
「私……お母さんのこと、全然見えてなかった……! 『合格した私、すごいでしょう』って、周りに自慢することばかり考えて……。お母さんがどれほど心配して、どれほど祈って私を送り出してくれたかも忘れて……自分のプライドが傷ついたからって、逃げ出して……!」
結衣は勾玉を胸に強く押し当て、声を上げて泣き崩れた。
「私、あの子たちを救いたいなんて、嘘だったのかな……。ただ格好つけたかっただけなのかな……!」
「そんなことないわ」
はるかは優しく、結衣の震える背中を抱きしめた。
「格好つけたい自分も、不安で怯える自分も、全部本当のあなたよ。……でもね、結衣。この勾玉の音を聞きなさい。この澄み切った音は、あなたが幼い頃からずっと心に温めてきた、『誰かの力になりたい』という純粋な初心そのものよ。……その初心に、嘘なんてこれっぽっちもないわ」
波の音が、結衣の涙を優しく洗っていく。
紀州の山奥で焼かれた一本の炭が、大阪湾の浜辺で、母から娘へと受け継がれた無償の愛の炎を、再び赤々と燃え上がらせていた。




