第165話:なにわ黒牛の芳醇、大阪が育んだ幻の赤身肉
辰三の古民家を後にした結衣とはるかは、泉州平野をさらに南下し、和泉山脈の山裾に広がる阪南市の緑豊かな丘陵地帯へとやってきていた。
木立に囲まれた隠れ家のような炭火焼肉処『牛の蔵』。
中庭に面した離れの個室に入ると、テーブルの中央に据えられた珪藻土の七輪から、真っ赤に熾った炭火がパチパチと心地よい爆ぜる音を立てていた。
「さあ、結衣。世界へ飛び立つ前の助走には、何よりも強靭な筋肉とスタミナが必要よ。……今夜は、大阪が世界に誇る奇跡の肉を味わいなさい!」
はるかの合図とともに、店主が恭しく運んできた塗りの大皿。
その上に鎮座していた肉の塊を見た瞬間、結衣は息を呑んだ。
「……な、なに……このお肉……!?」
皿の上に盛られていたのは、見事な厚切りにカットされた二つの部位――『カイノミ』と『イチボ』だった。
一般的なブランド和牛のような、白っぽくなるほどの過剰な霜降りではない。
引き締まった鮮やかなルビー色の赤身。
その赤身の筋繊維の間に、まるで天の川の星屑のように、極めて繊細で透明感のあるサシが均一に散りばめられている。
室内の炭火の温もりだけで、肉の表面の脂がうっすらと透明に輝き出し、ナッツやミルクのような甘い香りが漂い始めていた。
「これが、大阪府下で唯一育てられている純国産黒毛和牛――『なにわ黒牛』よ」
はるかが誇らしげに胸元の銀の翼を光らせた。
「なにわ黒牛……? 大阪で牛を育てているなんて、全然知らなかった……」
「無理もないわ。月にわずか五頭から十頭前後しか出荷されない、極めて希少な幻の牛だからよ。……でもね、結衣。この牛を育てている牧場主さんの情熱は、全国のどんな有名ブランド牛にも負けていないわ」
はるかはトングを取り、極厚のカイノミを一枚、七輪の網の上へと乗せた。
――ジュワワワワワァァァッッ!!
炭火の上に肉が触れた瞬間、暴力的なまでに食欲をそそる重厚な音が立ち上った。
立ち上る煙は、嫌な脂臭さが一切ない。
香ばしく炒ったアーモンドや上質なバターのような、気品に満ちた甘い芳香が個室いっぱいに充満する。
「なにわ黒牛の最大の特徴はね、雌牛(処女牛)だけにこだわり、通常の牛よりも半年以上も長い『三十ヶ月以上』の長期肥育を行うことなの」
はるかが手際よく肉を裏返す。
表面には、網目の香ばしい焦げ目がつき、表面から透明な肉汁がフツフツと泡を噴いていた。
「エサにも一切の妥協がないわ。ビール粕、おから、酒粕、炊いた玄米、そしてミネラル豊富な海藻粉末……。すべて人間が食べられるレベルの安全な素材を、自家配合して発酵させた特製飼料を与えているの。……だから、牛の消化器系にストレスがかからず、胃もたれの原因になる悪玉の飽和脂肪酸が極端に少ないのよ」
「脂が……胃もたれしない?」
「そう! オレイン酸をはじめとする不飽和脂肪酸が五十五パーセント以上も含まれているから、脂の融点が人間の体温よりも低い二十数度で完全に溶けてしまうの。……さあ、焼けたわよ! まずはこのカイノミを、すりおろしたばかりの生山葵と、泉州玉ねぎをすりおろした生醤油ダレで食べてみなさい!」
はるかから小皿に取り分けられた、湯気立ち上る肉。
結衣は割り箸で肉を挟み上げた。
驚くほど柔らかい。
箸先から、繊維がほどけそうになる感触が伝わってくる。
生山葵をちょんと乗せ、玉ねぎ醤油に軽くくぐらせて、一気に口の中へと運んだ。
――ハフッ、ジュワッ……!
「……ッッッ!?」
噛み締めた瞬間、結衣の喉から言葉にならない呻きが漏れた。
「……っ! な、なにこれ……っ! 柔らかい……のに、噛めば噛むほど、お肉の味が濃い……!」
脂がサラリと口の中で透明な液体になって喉を潤したあと、怒涛の勢いで押し寄せてきたのは、赤身そのものの強烈なアミノ酸の旨味だった。
肉の繊維の一本一本に、大地のミネラルと、長期肥育によってじっくりと蓄えられた深いコクが凝縮されている。
生山葵の爽快な辛みが脂の甘みを引き締め、泉州玉ねぎのフルーティーな甘みを持つタレが、肉の力強さと完璧に調和する。
飲み込んだ後にも、口の中に嫌な脂っこさは一切残らず、ただただ上質なステーキを食べ終えた後のような、至福の多幸感だけが漂っていた。
「美味しい……! こんなに力強いお肉、生まれて初めて食べた……!」
「ふふっ、そうでしょ!」
はるかも自分の箸でイチボを口に運び、満足そうに瞳を細めた。
「世間はね、大阪といえば『安くて早いうどんやたこ焼き』『お笑いと商売の街』というイメージばかりを持ちがちよ。……でもね、大阪の本当の凄さは、見えないところで命を削り、誰にも真似できない極上の本物を極限まで突き詰める、職人たちの『泥臭い誇り』にあるの」
はるかは結衣の目を真っ直ぐに見つめた。
「なにわ黒牛を育てる牧場主さんはね、毎朝毎晩、牛たちの一頭一頭の目を見て、体調を確かめ、糞の匂いを嗅ぎ、手作業でエサを混ぜ合わせているわ。……スマートに格好良く儲けることなんて考えていない。ただ、『本当に美味しくて、人を元気にできる本物の肉を作りたい』……その一念だけで、三十ヶ月もの月日を牛とともに生きているのよ」
泥臭い誇り。
手作業で牛と向き合う、職人の執念。
結衣の胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
(私は……スマートで格好いい国際支援を目指していたんだ……)
流暢な英語を操り、最新の経済理論を語り、周りから「優秀な国際派」と賞賛される自分になりたかった。
だが、そんな薄っぺらな虚栄心は、この肉の力強い一口の前では、何の価値もない砂粒同然だった。
本当に人を救うのは、スマートな言葉ではない。
目の前の相手と泥臭く向き合い、汗を流し、時間をかけて信頼を築き上げる――その「泥臭い執念」だけなのだ。
「……美味いなぁ。身体の底から、力が湧いてくるみたい……」
結衣は涙を拭い、二切れ目の肉を口に運んだ。
肉を噛み締めるごとに、冷え切っていた手足の先まで、熱い血液がドクドクと巡り始めていた。




