第164話:ジュワリと弾ける果汁、水ナスの浅漬けと生かじり
泉州の空が茜色から深い群青へと移り変わる頃、結衣とはるかは、水ナス農家・辰三の母屋へと招かれていた。
築百年の重厚な古民家。
磨き上げられた黒光りする松の太い梁と、ひんやりとした風が吹き抜ける広い土間の座敷。
その中央に据えられた大きな一枚板の座卓の上に、素朴でありながらこれ以上なく贅沢な「泉州の夕餉」が並べられていた。
「さあ、お嬢ちゃん、はるかの嬢ちゃん、遠慮せんと座って座って! 今、一番ええ塩梅に漬かった水ナスを出したるさかいな!」
辰三が土間の奥の冷暗所から、大きな瀬戸物の甕を抱え出してきた。
蓋を開けると、ふわりと立ち上る芳醇な香り。
米糠が発酵した甘酸っぱい乳酸菌の香りと、上質な昆布、そしてほのかな唐辛子の刺激臭。
辰三は腕をまくり、黄金色の糠床の奥深くに手を突っ込むと、掌にぽっかりと丸い水ナスを二つ、引き上げてみせた。
「ぬか漬けはな、長ネギや胡瓜みたいに一日も二日も漬け込んだらアカン。水ナスは皮が薄くて水気が多いから、新鮮な米糠にほんの半日、塩と昆布と酒粕を利かせた特製床にサッとくぐらせるくらいが一番美味いんや」
辰三は井戸水でサッと糠を洗い流し、ざるの上で水気を切った。
そして――やはり包丁は一切使わない。
指先をナスのヘタにかけ、親指をグッと押し込んで、縦に四つへと豪快に引き裂いた。
――ピキッ、ジュワワワワッ……!
裂け目から、透明な果汁が音を立てて溢れ出す。
糠の黄色がほんのり皮の縁に染まり、真っ白な果肉はまるで絹のように艶やかな光を放っていた。
青磁の平皿に美しく盛り付けられた水ナスの浅漬け。
「どうぞ、冷たいうちに手掴みでいってや」
「い、いただきます……!」
結衣は一切れを指でつまみ上げた。
ひんやりと冷たい。
指先を通して、果肉がたっぷりと吸い込んだ果汁の重みがズシリと伝わってくる。
口を開け、その繊維の裂け目に歯を立てた。
――シャクッ……ジュワワワワワワァァァッッ!!
「……っっっ!!」
噛み締めた瞬間、結衣の瞳が見開かれた。
先ほど畑で食べたもぎたての生水ナスとは、全く違う次元の旨味が舌の上を蹂躙したのだ。
まず訪れるのは、糠床の熟成がもたらす、まろやかで奥深い塩気と柔らかな酸味。
そして、歯が果肉の奥へと沈み込むと同時に、閉じ込められていた大量の水ナスの天然果汁が、津波のように口の中に溢れ出してきた。
昆布のグルタミン酸を吸い込んだ果汁は、まるで極上の出汁そのもの。
塩気が水ナスの持っている淡い甘みを極限まで引き出し、噛むごとにシャキシャキ、ジュワジュワと、信じられないほどのジューシーなシンフォニーを奏でる。
「……っ、美味しい……! なにこれ、お漬物なのに、まるで冷たいスープを飲んでいるみたい……!」
「せやろ!」
辰三が膝を打って破顔した。
「水ナスの浅漬けはな、ご飯のおかずやない。『飲む漬物』なんや! ほら、この泉州産のヒノヒカリの炊きたてご飯と一緒にいってみな!」
おひつからよそわれた、湯気立ち上る銀シャリ。
一粒一粒がピンと立ち、真珠のように輝く白米。
結衣は水ナスの浅漬けをご飯の上に一切れ乗せ、米と一緒に口の中へと掻き込んだ。
――熱々の白米と、冷たい水ナスの果汁。
対極の温度が口の中で溶け合い、米の甘みが水ナスの塩気と旨味を完璧に包み込む。
咀嚼するたびに喉が鳴り、身体の底から「食べる歓び」が湧き上がってくる。
「結衣、お酒も少し舐めてみなさいな」
はるかが青竹の徳利から、ガラスの切子グラスへとトクトクと地酒を注いでくれた。
泉州阪南市の名門蔵・浪花酒造が生み出す銘酒『浪花正宗』の純米生原酒。
グラスに口をつけると、爽快な青リンゴのような吟醸香が鼻を抜け、口に含むとキリリと引き締まった超辛口の旨味が広がる。
その冷酒を喉へと流し込み、すかさず二切れ目の水ナスをかじる。
水ナスの豊かな果汁が酒の辛みをまろやかに包み、完璧なマリアージュが完成する。
「……はあぁぁ……生きてるって、こういうことなんだ……」
結衣の口から、ため息のような言葉が漏れた。
この数週間、オンライン合宿のプレッシャーと焦りで、食事の味など全く感じていなかった。
机の上で冷めきったコンビニのサンドイッチを機械的に胃に流し込み、パソコンの画面と睨み合い、周りと自分を比べては夜通し泣いていた。
「お嬢ちゃん」
辰三が湯呑み茶碗を置き、静かに結衣を見つめた。
「あんた、海外へ行って、貧しい国の子どもらを助けたいんやろ?」
「……はい。でも、私には何の専門知識もなくて……英語も下手で……」
「アホ言え」
辰三は一喝した。
だがその声には、怒りではなく、深い慈愛が満ちていた。
「水ナスはな、この泉州の土と水があるからこそ、こうやって人を喜ばせる実をつけるんや。もしこの苗を、東京のビル街や、水のない砂漠に持っていったらどないなると思う? 一週間で枯れて終わりや」
辰三は自分の節くれだった分厚い手を卓の上に置いた。
「自分の足元の土を知らん人間がな、どうして他国の土の上に立って人を助けられるんや。……知識や英語なんてものはな、後からいくらでも身につく枝葉や。大事なんはな、『自分は何者で、どこの大地に根を張って生きてきたか』という根っこの部分やろ」
「自分の……根っこ……」
「そうや。日本の土の温もりを知り、米の美味さを知り、人の情けのありがたさを知っとる人間だけがな、海の向こうの人間と、魂で向き合えるんや。……あんたのその真っ直ぐな瞳はな、決して偽物やないで」
辰三の言葉が、温かい水ナスの果汁とともに、結衣の乾ききっていた心に沁み渡っていった。
「さあ、野菜と米で土台を整えたら、次は泉州が誇る『真の力』を喰らいに行くわよ!」
はるかが立ち上がり、白革のブーツを鳴らした。
「世界へ羽ばたく翼には、最高峰の血肉が必要なんだから!」




