第163話:後晒しの白き布、すべての不純物を洗い流す水
畑を離れ、泉佐野市の海に近い市街地へ。
瓦屋根のノコギリ屋根が連なる路地に入ると、リズミカルな機械音が辺り一面に響き渡っていた。
――ガッシャン、カッシャン! ガッシャン、カッシャン!
明治二十年(1887年)、新川喜代十郎という先人が、日本で初めてタオル製織の技術を確立した日本のタオル産業発祥の地――泉州。
その歴史を受け継ぐ老舗機業場『泉州白仙織物』の引き戸をくぐると、ふわりと温かい綿の微粒子と、石鹸のような清潔な香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい、はるかさん! ……おや、可愛いお嬢さんも一緒かい」
出迎えてくれたのは、頭に真っ白なタオルを巻き、ゴム前掛けをした筋骨隆々の職人――坂本(さかもと / 55歳)だった。
「坂本さん、こんにちは! この子に、泉州のタオルの本当の『白さ』を見せてあげたくて連れてきたの」
「ほほう、白さかい。……いいタイミングだ。ちょうど今から、一番大事な『晒し(さらし)』の釜出しをするところだよ。入っておいで」
坂本に案内されて工場の奥の洗い場へと足を踏み入れた瞬間、結衣はもうもうと立ち込める白い湯気に包まれた。
床には、和泉山脈の伏流水を惜しみなく汲み上げた清らかな地下水が、水路を滝のように流れている。
そして、巨大なステンレス製の円筒タンクの中から、クレーンによって引き上げられてきたのは――眩いばかりの純白のタオルの巨大なロールだった。
「すごい……! 雪のように真っ白……!」
結衣が思わず声を上げると、坂本は誇らしげに目を細めた。
「驚いたかい。……だがな、お嬢ちゃん。このタオルはな、織り上がったばかりの時は、こんなに白くもなければ、水を一滴も吸わねえガサガサの布だったんだよ」
「え……? 水を吸わないタオル?」
「そうだ」
坂本は作業の手を止め、タオルの製造工程について語り始めた。
「世の中のタオルの多く――たとえば四国の今治なんかはな、糸の段階で色を染めたり晒したりしてから織る『先晒し(さきざらし)』が主流だ。色鮮やかなジャガード織りや柄物を作るのには向いている。……だが、うちの泉州タオルは、百三十年間ずっと『後晒し(あとざらし)』という製法を貫いてきたんだ」
「後晒し……?」
「そう。綿糸を織機にかける時、糸が摩擦で切れないように、天然のデンプン糊をたっぷりと塗りつける。さらに、綿花そのものが持っている天然の植物油やロウ分、畑の土埃なんかも付着している。……泉州タオルはな、その糊や油がついたまま、まずは生地を織り上げるんだ」
坂本は巨大な水槽の冷たい地下水を手ですくい上げた。
「そして、織り上がった生地を、この和泉山脈の軟水と天然の酵素を使って、何度も何度も、徹底的に洗い晒す。糸につけた糊も、綿が被っていた余分な油分も、すべての不純物を、最後の最後に完全に洗い流し去るんだ。……これが『後晒し』だ」
坂本は洗い上がったばかりの濡れタオルを一枚、脱水機から取り出して結衣に手渡した。
「触ってごらん」
結衣は両手で受け取った。
――ッ!
「……なんて、柔らかいの……! それに、手に吸い付くみたい……!」
驚くべき感触だった。
新品のタオルにありがちな、薬品の嫌な匂いや、表面のテカテカとしたコーティング感、滑るような油分が一切ない。
触れた瞬間、掌のわずかな湿気を一瞬にして吸い取るような、驚異的な吸水性。
綿本来の極細繊維の一本一本が空気をたっぷり含んで立ち上がり、まるで生まれたての赤ちゃんの産着のように、どこまでも優しく肌を包み込んでくれる。
「新品のタオルを買ってきて、最初に使う時、水を弾いて吸わなかった経験があるだろう?」
坂本が微笑みながら言った。
「あれはな、糸に残った油分や糊のせいなんだよ。……だが、うちの泉州タオルは、買ったその瞬間から驚くほど水を吸う。なぜなら、すべての不純物を洗い落とし、綿が『生まれたままの無垢な姿』に戻っているからだ」
坂本は結衣の目を見つめて、静かに語りかけた。
「人間も同じじゃねえのかい。……生きてりゃあ、見栄やプライド、他人によく見られたいという余計な糊を、心にベタベタと塗りたくってしまうもんだ。『英語を流暢に話して格好良く見せたい』『専門知識を振りかざして立派な人間だと思われたい』……そんな不純物を身に纏いすぎると、心がガチガチに硬くなって、目の前の人の悲しみや涙を、一滴も吸い取れなくなっちまう」
「人の涙を……吸い取れなくなる……」
結衣の喉が、熱く詰まった。
「そうだ。大事なのはな、着飾ることじゃねえ。……余計な見栄やプライドを、冷たい水で全部洗い流して、生まれたままの無垢な自分に戻ることだ。……不純物をすべて捨て去った心だけが、他人の流した涙を、優しく全身で吸い取ってやることができるんだよ」
――余計な見栄を、全部洗い流す。
その言葉が、結衣の魂を激しく揺さぶった。
自分は、何のために東南アジアへ行こうとしていたのか。
スマートに英語を操るエリートになりたかったのか?
立派な国際支援の肩書きを手に入れて、周りから賞賛されたかったのか?
違う。絶対に違う。
ただ、あの子どもたちの瞳を曇らせたくなかった。
貧困の中でノートも持てない子どもたちに、寄り添い、一緒に笑い、涙を拭ってあげたかった。
それだけだったはずだ。
それなのに自分は、同期の学生たちの優秀さに怯え、自分の見栄やプライドを守るために、あの出発ロビーから逃げ出してしまったのだ。
「結衣」
はるかがそっと後ろから寄り添い、結衣の肩を抱いた。
「あなたの心の糊は、もう綺麗に溶け始めているわ。……さあ、次は泉州の夜の宴へ参りましょ。空っぽになったあんたの魂に、本物のエネルギーを注ぎ込んであげるから!」
洗い場を流れる清らかな水の音が、結衣の迷いを洗い流すように、どこまでも澄み切って響いていた。




