第162話:泉州の土と太陽、畑の飲む果実『水ナス』
特急はるかを降りた結衣は、はるかに手を引かれ、泉州平野の奥へと広がる長閑な田園地帯へとやってきていた。
背後には、大阪と和歌山の境を東西に連なる和泉山脈の青々とした稜線が聳え立ち、南からは瀬戸内海の温かい潮風が吹き抜けている。
「ここよ。足元を見てごらんなさい」
はるかに促され、結衣は一面に広がるビニールハウスと露地畑の畦道に立った。
ふかふかとした黒々とした土。
靴底越しにも伝わってくる、たっぷりと水分と有機物を含んだ大地の柔らかさ。
畑の中には、大人の腰の高さほどまで育った濃い緑の葉が生い茂り、紫色の可憐な花が初夏の陽光を浴びて揺れていた。
「おーい、はるかの嬢ちゃん! えらいべっぴんさんを連れて、どないしたんや!」
畝の間から顔を出したのは、麦わら帽子を被り、顔も腕も真っ黒に日焼けした屈強な老人だった。
紺の作業着に長靴を履き、腰には収穫用の籠をぶら下げている。
水ナス農家を営んで五十年という、辰三(たつぞう / 68歳)だった。
「辰三さん、こんにちは! 今日は東京から、少し心の元気を失くした迷子の小鳥さんを連れてきたの」
「迷子やと? ははあ、若いのにえらい暗い顔しとるな。……都会のコンクリートジャングルに当てられたか。まあええ、まずはこの畑の真ん中に立って、深呼吸してみな」
辰三に言われ、結衣はおずおずと胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
甘い土の匂い、青葉の香り、そしてどこか微かに漂う、清らかな湧き水の気配。
東京のオフィス街や大学の講義室、空港の密閉されたロビーでは決して嗅ぐことのできなかった、命そのものの匂いだった。
「お嬢ちゃん、ナスいうたら、どんな形を思い浮かべる?」
「え……? 細長くて、紫色で……スーパーでよく見る長ナスや千両ナスですけど……」
「そうやろ。だがな、うちの泉州のナスは、そんなヤワなもんやないで。……ほら、これを見てみ」
辰三が生い茂る大きな葉を掻き分けた。
そこに実っていたものを見て、結衣は目を丸くした。
「……えっ!? これ、本当にナスなんですか……!?」
それは、結衣の知るナスとは全く異なる姿をしていた。
細長いどころか、まるで丸々と太った大玉の洋梨か、小さな巾着袋のようにふっくらと丸みを帯びている。
皮の色は、黒に近いほど深い紫紺色。
初夏の陽光を浴びて、まるで濡れているかのように瑞々しい艶を放ち、パンパンに張り詰めた皮の下に、途方もない量の水分が閉じ込められているのが一目で分かった。
「これが、日本中でこの泉州地方でしか育たん奇跡の伝統野菜――『泉州水ナス』や」
辰三は愛おしそうにその実を掌で包み込み、ハサミでパチンと枝から切り離した。
ずっしりと重い。
片手で持つと、まるで水風船を手のひらに載せているかのような、独特の重厚感と弾力がある。
「水ナスはな、とにかく水を欲しがる。和泉山脈から湧き出る豊かな地下水を、毎日毎日、根っこから浴びるように吸い上げて大きくなるんや。……だがな、お嬢ちゃん。水ナスの本当の凄さは、包丁を入れたらアカンところにあるんや」
「包丁を……使っちゃいけない?」
「そうや。金属の刃物を当てると、鉄の匂いが移って、せっかくの果汁が逃げてまう。……水ナスはな、こうやって食うんや!」
辰三は親指の爪を水ナスのヘタのキワにクイッと入れ、ヘタをポロリと外した。
そして――。
両手の親指をナスの頭に当て、一気に左右へと引き裂いた!
――パッカァァァンッ!!
「……あっ!」
結衣の口から息が漏れた。
引き裂かれた瞬間、まるで切り裂かれた果実の中から水風船が破裂したかのように、プシュッと無数の透明な水滴が宙に飛び散ったのだ。
――ジュワワワワワッ……!
断面から、滝のように溢れ出してくる透明な果汁。
真っ白な果肉は、まるで上質なスポンジのようにキメ細かく、繊維の隙間という隙間に、たっぷりと大地の水が湛えられていた。
立ち上ってきたのは、青臭さなど微塵もない、まるでメロンやリンゴのような爽やかで甘やかな芳香だった。
「ほら、お嬢ちゃん。この裂けたてのやつを、そのまま口に放り込んでみな!」
辰三から差し出された、滴る水ナス。
結衣は両手で受け取り、こぼれ落ちそうになる果汁を迎えに行くように、豪快に口を開いて噛み付いた。
――シャクッ、ジュワワワワワァァァッッ!!
「……っっっ!?」
結衣の全身が硬直した。
果汁が、口の中で大爆発を起こしたのだ。
「な……なにこれ……!? 甘い……! これ、本当にナスなの!? フルーツじゃないの!?」
信じられない衝撃だった。
通常のナスを生でかじった時に感じる、あの舌をピリピリと刺すような「灰汁」や渋みが、完全にゼロだった。
皮は驚くほど薄く、歯が当たった瞬間にプチッと弾けて果肉と一体化する。
口いっぱいに広がるのは、澄み切った天然水そのものの清涼感と、噛むほどに溢れ出す淡く上品な果糖の甘み。
まるで、冷やした完熟の桃か和梨をかじっているかのような、果てしなくピュアな味わいだった。
「がはは! ええ食いっぷりや!」
辰三が嬉しそうに腹を抱えて笑った。
「せやろ! 水ナスはな、『畑の飲む果実』って呼ばれとるんや。昔の農家はな、真夏のカンカン照りの中で野良仕事をして喉が渇いたら、井戸水やなくて、この畑の水ナスをもぎ取って喉を潤したもんや」
辰三は結衣の顔を覗き込み、少し真面目な声で語りかけた。
「だがな、お嬢ちゃん。この水ナスはな、育てるのが日本一難しいナスでもあるんや」
「育てるのが……難しい?」
「そうや。皮があまりにも薄くて柔らかいからな、風が吹いて自分の葉っぱがチョンと触れただけで、皮に黒い引っかき傷がついて売り物にならんようになる。ちょっとでも水が足りんと、すぐに身が固くなってアクが出る。……繊細で、傷つきやすくて、手のかかる娘なんや」
辰三は畑の土を両手で握りしめた。
「だけどな、傷つくのを恐れて風のない温室に閉じ込めてちゃ、こんなに甘く力強い実は育たんのや。泉州の強い太陽と、海からの激しい風を受け止めて、それでも大地から水を吸い上げ続けた実だけが、こうして人を芯から感動させる果汁を宿すんやで」
――傷つくのを恐れていては、力強い実は育たない。
辰三の言葉が、結衣の胸の奥底に、染み渡るように突き刺さった。
自分は、傷つくのが怖かったのだ。
同期の優秀な学生たちに馬鹿にされるのが怖くて、現地で失敗して恥をかくのが怖くて、温室の中に逃げ込もうとしていた。
だが、傷つくことこそが、本当に人を潤すための「実」を育てるプロセスだったのではないか――。
「さあ、土の力を味わったら、次は泉州のもう一つの誇りを見に行きましょ」
はるかが優しく微笑み、結衣の手を取った。
「あんたの心の奥にこびりついた、余計な澱を、すべて真っ白に洗い流してくれる場所へね!」




