第161話:時速百三十キロの助走、風を掴む白い翼
地下の暗闇を突き破った瞬間、視界のすべてが眩い初夏の陽光と、果てしない白銀の海原によって埋め尽くされた。
水木蒼太や有村志保が乗ってきた列車とも違う、極めて滑らかで、かつ圧倒的な瞬発力を誇る281系電車の加速Gが、結衣の身体を座席の背もたれへと深く押し付けた。
「ちょ、ちょっと! どこへ連れていくつもりなの!? 私、もう東京の実家に帰る新幹線の切符を買わなきゃいけないのに!」
「実家に帰る? ふざけないで。そんな抜け殻みたいな顔で親御さんの前に立って、一体何て言い訳するつもりよ?」
はるかは通路に立ち、座席の肘掛けに手を置いて結衣を見下ろした。
窓の外には、海上に建設された世界初の完全人工島・関西国際空港と、本州の大阪府泉佐野市を一直線に結ぶ巨大な鋼鉄の建造物――『関西国際空港連絡橋(スカイゲートブリッジR)』が広がっていた。
全長三千七百五十メートル。
世界最長クラスの二階建てトラス橋。
上段には六車線の高速道路が走り、下段のトラスの内部を、JRの『はるか』と南海電鉄の『ラピート』が共用する二条のレールが貫いている。
ガタタン、ゴトトン……ガタタン、ゴトトン……!
レールを踏みしめる重厚なジョイント音が、鉄骨の骨組みに反響する。
時速は瞬く間に百三十キロに達していた。
左右の車窓を遮るものは何もない。
白波が逆巻く大阪湾の碧い海面が、わずか数十メートル下を猛烈なスピードで後方へと流れていく。
――ゴォォォォォォォォッッ!!
その時、客室の天井を突き破るような凄まじい大轟音が鳴り響いた。
結衣が思わず窓の外を見上げると、連絡橋のすぐ脇、空港のB滑走路から飛び立ったばかりの、タイ国際航空の巨大なボーイング777が、青空を切り裂くように急上昇していくところだった。
白と紫の巨躯。巨大なジェットエンジンが陽炎を吐き出し、銀色の翼をしならせながら、雲の切れ間へと吸い込まれていく。
本来なら、結衣があの機体の中に座り、シートベルトを締めて空を見上げているはずだった飛行機。
「……ああ……行っちゃった……」
結衣の喉から、掠れた声が漏れた。
「私の乗るはずだった飛行機……。私の夢を乗せて……飛んでいっちゃった……」
「ねえ、結衣」
はるかが静かに窓ガラスに手を当て、空へと遠ざかるジェット機を見つめた。
「飛行機がどうして、あの何百トンもの鉄の塊を宙に浮かせて、空を飛べるか知っているかしら?」
「え……? そんなの……ジェットエンジンのパワーでしょ……?」
「違うわ」
はるかは首を横に振った。
「ジェットエンジンはね、前に進むための推進力を生み出しているだけよ。機体を大空へと持ち上げる本当の力――『揚力』を生み出しているのは、あの薄い主翼なのよ」
「主翼……?」
「そう。飛行機の翼の断面はね、上面がふっくらと丸く、下面が平らに設計されているの。飛行機が前に進むと、翼の上面を流れる空気のスピードが速くなり、空気の圧力が下がる。その結果、下から上へと機体を押し上げる強大な力――ベルヌーイの定理による揚力が生まれるのよ」
はるかは身を乗り出し、結衣の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でもね、結衣。その揚力を生み出すためには、絶対に欠かせない条件があるの。……何だかわかる?」
「条件……?」
「『助走』よ!」
はるかの声が、車内に凛と響き渡った。
「どんな最新鋭のハイテク旅客機だって、地上で止まっている状態から、いきなり空へ飛び立つことなんて絶対にできないわ。全長四千メートルの滑走路を、重い機体を引きずりながら、車輪で大地を激しく踏みしめて、時速三百キロ近くまで死に物狂いで加速しなければならないの。……機体が激しくガタガタと揺れ、エンジンが焼き切れるような轟音を上げ、摩擦熱でタイヤが悲鳴を上げる……。その過酷な『助走』を限界までやり切った瞬間、初めて、翼は風を掴み、ふわりと大空へ舞い上がることができるのよ!」
はるかは結衣の胸元を指差した。
「あんたはね、結衣。まだ滑走路の助走を始めたばかりだったのよ。……それなのに、周りの飛行機が格好良く飛んでいる姿を見て、『私なんて飛べない』『私の翼は偽物だ』って、助走の途中でブレーキを踏んで逃げ出したんじゃない!」
「っ……!」
結衣の胸に、激しい痛みが走った。
「助走が怖くない人間なんて、世界中どこを探したっていやしないわ。……スピードが上がるほど、恐怖は増す。風圧は強くなる。でもね、前を向いて車輪を回し続けなきゃ、翼が風を掴む奇跡の瞬間には絶対に辿り着けないのよ!」
連絡橋を渡り切った列車は、対岸の泉州平野へと突入していった。
海を越え、陸地へと戻った車窓には、古くからの町並みと、青々とした畑が広がっている。
「さあ、着くわよ。あんたの足元に広がる、豊かな大地の懐へね」
「大地の……懐?」
「そうよ。世界へ飛び立つ前に、あんたが知らなきゃいけないことがあるわ。……日本の土の匂いも、水を育む人の心の温もりも知らないで、どうして海の向こうの他国の魂を愛せるっていうの? ……降りなさい、結衣! 泉州の大地が、あんたのその縮こまった背骨を叩き直してくれるわ!」
列車は減速し、泉州の拠点駅へと滑り込んでいった。
結衣の胸の奥で、止まりかけていた心の歯車が、微かな音を立てて再び回り始めていた。




