第160話:関空連絡橋の突風、逃げ出した搭乗ゲート
『――関西国際空港より、バンコク行き、タイ国際航空六七三便をご利用のお客様に、最終搭乗のご案内を申し上げます。成瀬結衣様、成瀬結衣様。ご搭乗口四番ゲートまで、大至急お越しくださいませ……』
四カ国語で繰り返される無機質で滑らかな空港アナウンスが、高い吹き抜けの天井に反響し、冷たい雨のように降り注いでいた。
だが、その放送が呼び出し続ける当の本人は、国際線出発ロビーのどこにもいなかった。
――ヒューッ……ゴオオオオオッ……!
大阪湾の人工島と本州を結ぶ連絡線の地下深く、関西空港駅のプラットホーム。
初夏の昼下がり、海から吹き付ける湿った強風がトンネルの開口部を吹き抜け、線路の溝を激しく震わせている。
その人気の途絶えた一番線ホームのコンクリートの柱の陰で、成瀬結衣(なるせ ゆい / 21歳)は、大きな黒いスーツケースを抱きしめたまま、蹲っていた。
「ハッ……ハッ……う、嘘……息が……できない……っ」
喉の奥がカラカラに渇き、胸が激しい動悸で早鐘のように跳ね上がっている。
過呼吸。冷や汗が額から顎へと伝い落ち、震える指先からは完全に血の気が引いていた。
手元に握りしめられたパスポートケースの中には、バンコク経由でカンボジア・プノンペンへと向かうはずだった航空券が、ぐしゃぐしゃに握り潰されていた。
二十一歳。外国語大学で国際関係学を専攻する大学三年生。
幼い頃、テレビのドキュメンタリーで見た、内戦の傷跡が残るアジアの孤児院。
ノートも鉛筆もなく、泥水の中で笑う子どもたちの瞳に心を撃ち抜かれ、結衣はずっと心に誓ってきた。
『いつか私が、あの子たちに教育を届ける架け橋になるんだ』と。
大学に入ってからは、遊ぶ暇も惜しんで三つのアルバイトを掛け持ちし、学費と語学のレッスン料を稼いだ。
そして倍率五十倍を超える超難関の国連NGO主催『東南アジア初等教育支援インターンシップ』の選抜試験に、奇跡的に合格したのだ。
だが――結衣の夢は、出発直前のわずか一週間で、無残にも木っ端微塵に粉砕された。
出発直前に行われた、日本と現地の拠点を結ぶ一週間のオンライン事前合宿。
画面の向こうに並んだ同期のインターン生たちは、全員が幼少期から海外で育った帰国子女や、東京の一流名門大の国際金融・開発経済の大学院生たちだった。
飛び交うのは、目にも留まらぬ速さのネイティブイングリッシュ。
現地の教育格差を是正するためのマイクロファイナンスの仕組み、国連のSDGs指標に基づいた定量的評価モデル、地政学的な紛争リスク――。
結衣が教科書で学んできた拙い英語や、ただ「子どもたちを笑顔にしたい」という純粋な想いなど、彼らの洗練された議論の前では、幼稚園児の落書き同然だった。
『成瀬さん、あなたの提案する“絵本を配るプロジェクト”って、持続可能性の観点から何の経済的自立にも繋がらないよね?』
『ただの先進国の自己満足の押し売りじゃないかな。英語の議論にもついてこれないなら、現地スタッフとの調整で足手まといになるだけだよ』
ミーティングの画面越しに投げつけられた、理路整然とした正論。
悪気のない、それゆえにナイフよりも鋭い言葉。
(私なんて……何も持っていない……)
出発ロビーで手荷物を預け、出国審査の列に並んだ瞬間、結衣の目の前が真っ暗になった。
心臓が破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされ、耳鳴りが止まらなくなった。
『お前は偽物だ』
『英語も下手くそで、専門知識もない田舎娘が、世界へ行って何を気取っているんだ』
頭の中で無数の声が嘲笑し、結衣の足は竦み、搭乗ゲートを目前にしてスーツケースを掴み、後ろを振り返って走り出していたのだ。
「……っ、逃げちゃった……。みんなの期待を裏切って、お母さんにも嘘をついて……私、逃げちゃった……!」
結衣は膝に顔を埋め、声を押し殺して泣きじゃくった。
バッグから取り出したのは、今朝、家を出る時にお母さんが「汗をかいたらこれで拭きなさい」と持たせてくれた、一枚の真っ白なハンドタオルだった。
大阪・泉州地方の伝統技術で作られた、ふんわりと柔らかい手織りの泉州こだわりタオル。
その温かい綿の感触が、余計に結衣の胸を締め付けた。
その時だった。
結衣のコートのポケットの奥で、カチリと微かな硬質な音が響いた。
指先を滑り込ませると、そこにあったのは、見覚えのない一枚の昔ながらの厚紙切符――硬券だった。
表面には、抜けるような大空のスカイブルーと純白のライン。
そして、凛とした筆致で刻まれた文字――。
――『風の切符』
「え……? 風の、切符……?」
結衣が息を呑んだ瞬間、硬券がまるでジェットエンジンのアフターバーナーのように、カッと眩い光を放ち、掌を灼くほどの熱を帯び始めた。
――キィィィィィン……!
トンネルの奥から、洗練された高周波のインバータ音が響き渡ってきた。
レールを滑るようにホームへと滑り込んできた、流線型の白い車体。
窓下に鮮やかな紫紺のラインを配し、京都から大阪を駆け抜けて関西空港を結ぶ、日本屈指の空港アクセス特急――『はるか(281系)』だった。
プシュー……と気密ドアが開き、ステップの上に一人の女性が降り立った。
白と紫紺を基調とした、息を呑むほどモダンで洗練されたハイブリッド着物ドレス。
胸元には、大空へ向かって飛び立つジェット機の翼を象った純銀の帯留め。
黒髪をハーフアップにまとめ、白磁とピンクサファイアで作られた大輪の桜のかんざしを揺らしている。
そしてその双眸――抜けるような大空の青を湛えた瞳が、柱の陰で蹲る結衣を、射抜くように見つめていた。
「搭乗ゲートから逃げ出して、こんな薄暗い地下に潜り込むなんて……ずいぶんと情けない風に吹かれてきたものね」
「え……? あ、あなた……誰……?」
「私は『はるか』。都の雅と大空の風を繋ぐ、関空特急の鉄娘よ」
はるかは白革のロングブーツをカツンと鳴らし、結衣の前に歩み寄った。
手にしたクリスタルタブレットを腰に当て、ツンと小首を傾げる。
「成瀬結衣。その胸元の『風の切符』が、あんたの心の軌道が狂って脱線しかけているのを教えてくれたわ。……パスポートを握りしめたまま、世界への扉を目前にして逃げ出すなんて、いい度胸じゃない」
「な、何よ……! あなたに私の何がわかるのよ!? 私には資格なんてないの! 英語も下手で、専門知識もなくて、ただの足手まといなのよ! 放っておいて!」
結衣が涙ながらに叫んだ瞬間、はるかは躊躇うことなく結衣のスーツケースのハンドルをガッシリと掴んだ。
「放っておくわけないでしょ! 飛び立つ前の助走で足がすくんだくらいで、翼を畳んでどうするのよ!」
「きゃっ!?」
はるかの細い腕からは想像もつかない力強さで、結衣は腕を引かれ、スーツケースごと特急はるかのデッキへと一気に引きずり込まれた。
ドアが閉まり、インバータが力強く唸りを上げる。
列車は再び加速を始め、地下のホームを抜け出し、海の上を渡る巨大な連絡橋へと突入していった。




