第159話:松葉の切符、大空へ架かる白い翼
天橋立と宮津を巡り、由良川を渡り直した『丹後くろまつ号』は、海の京都の鉄路の終着点――京都府西舞鶴駅のホームへと静かに滑り込んだ。
午後四時。西日が舞鶴の軍港の海を黄金色に染め上げる中、プシューと音を立てて気密扉が開いた。
志保はくろまつとともにホームへと降り立った。
福知山駅で出会った時の、あの死人のように青白く、冬枯れの枝のように縮こまっていた面影は、どこにもなかった。
その頬にはほんのりと健康的な赤みが差し、背筋は天橋立の黒松のように凛と伸びていた。
腕の中には、完成したばかりの絵本『うみのスープのおうち』の表紙が描かれたスケッチブックが、大切そうに抱きしめられている。
「……とうとう、着いてしまったのね」
「ええ。西舞鶴にて、くろまつの旅は終点でございます」
くろまつは和服ドレスの裾を整え、穏やかな眼差しで志保を見つめた。
その時だった。
志保の胸元のポケットが、ドクンと力強い鼓動を刻むように熱を帯びた。
「あ……っ!」
ポケットから取り出したあの硬券――『風の切符』。
厚紙の切符が、深い松葉色と温かな黄金色の光を放ち始めた。
切符の表面に、見えない印鑑が押し当てられたかのように、ジジジ……と音を立てて朱色の紋様が浮かび上がってくる。
天橋立の美しい白砂青松の龍の如き姿と、穏やかな由良川の水鏡を渡る漆黒の『丹後くろまつ号』の優美なシルエット。
そして、その下部に刻まれた凛とした文字――。
――[京都丹後鉄道・西舞鶴/下車前途無効・海の京都の温もり 完了]
カチリと澄んだ音が響き、切符の光が静かに収まった。
硬券は、まるで丹後ちりめんのようにふんわりと柔らかく、そして輪島塗の小椀のように温かい感触を、志保の掌に残していた。
「スタンプが、灯りましたなぁ」
くろまつが目を細めて微笑んだ。
「志保さん。……あなたの心のレールは、もう迷いなく真っ直ぐに敷き直されました。……これから、どこへ向かわれますか?」
「東京へ、帰ります」
志保は迷いのない澄んだ瞳で答えた。
「元夫に連絡して、葵に会いに行きます。……すぐに許してもらえるとは思っていません。親権を取り戻せるとも思っていません。でも、今の私なら、あの子の目を真っ直ぐに見つめて言える気がするんです。『ママは、どんな嵐の中でも、あなたのために温かいスープを作って待っているよ』って」
「ええ……。それが、お母ちゃんの本当の強さどす」
「時間を味方にします。木下酒造のお酒のように、何年かかっても、焦らず、信じて、娘との絆を発酵させていきます。……そして、この新しい絵本を、日本中の傷ついた親子の元へ届けるために、もう一度、全力で筆を握ります!」
くろまつは深々と頭を下げ、そして優しく両手を差し出した。
二人はしっかりと手を握り合った。
「行ってらっしゃいませ、志保さん。……海の京都の松と海は、いつでもあなたと葵ちゃんのお帰りを、美味しいご飯を用意して待っておりますよって」
「ありがとう、くろまつさん。……本当に、ありがとう!」
志保は深々と一礼し、京都・東京方面へと向かう特急列車のホームへと歩み出した。
その足取りは力強く、初夏の西日を浴びて、前へ前へと迷いなく進んでいた。
* * *
ホームに一人残ったくろまつは、遠ざかる志保の背中を見届け、ふうと安堵のため息を漏らした。
手にした漆塗りの角盆を抱え直し、日本海から吹き寄せる夕風に松葉のかんざしを揺らす。
「……ええ旅人さんやった。丹後の海も、喜んでくれたみたいやね」
その時だった。
西舞鶴駅の構内アナウンスが、涼やかなチャイムとともに響き渡った。
『――まもなく、山陰本線・福知山方面からの連絡特急が到着いたします。新大阪、天王寺を経て、関西国際空港方面へお越しのお客様は……』
「あら……?」
くろまつが視線を落とした。
手元の角盆の上に、いつの間にか一枚のコースターが置かれていた。
それは、紙製のものではない。
上質な綿の極細糸で織り上げられた、雲のようにふんわりと柔らかく、吸水性に優れた純白の手織りコースター。
大阪・泉州地方で百三十年の伝統を誇る『泉州タオル』の熟練職人が手掛けた、極上の逸品だった。
コースターの端には、可憐な桜の花びらと、銀色の飛行機の翼の刺繍が施されている。
くろまつはフッと艶やかに微笑み、西舞鶴から南へ、遥か大阪湾へと続く空を見上げた。
「次は……大空へと架かる橋やね」
視線の先、陽炎揺らめくホームの彼方に、幻影のように一人の鉄娘の姿が浮かび上がっていた。
白と紫紺を基調とした、モダンで洗練された着物ドレス。
胸元には飛行機の翼を象った銀の帯留め。
黒髪には、風に舞う大輪の桜のかんざし。
世界中から日本へ、そして日本から世界中へと旅立つ人々を見守る、関空特急の撫子――**はるか**。
はるかは遠く海の京都に佇むくろまつへ向けて、凛とした笑みを浮かべ、大空を指差して小さく頷いてみせた。
『――くろまつさん、お疲れ様でした。傷を癒やした旅人の魂を、今度は私たちが大空へと飛び立たせる番ですね』
くろまつは漆の盃を掲げ、優雅に応えた。
「ええ。頼みましたえ、はるかさん。……迷える若き翼に、恐れず羽ばたくための風を、お腹いっぱい吹かせておあげなさいな」
天橋立の松風が、大阪湾の潮風へと溶け合っていく。
海の京都で再生した魂の旅は、次なる舞台――空と世界を繋ぐ「泉州と関西国際空港」へと、力強くバトンを繋いだのだった。
(第十五章 くろまつと海の京都 ――完)
(第十六章『はるかと大空への架け橋 〜泉州の水ナス、空を翔ける白き衣〜』へつづく)




