第158話:雪舟の眺め、震える右手が描く新しいスープ
天橋立の北側、成相山の中腹に位置する傘松公園の展望台。
初夏の清冽な風が吹き抜けるウッドデッキの上に立った志保は、眼下に広がる雄大なパノラマに息を呑んだ。
そこは、室町時代の水墨画の巨匠・雪舟が、八十歳を過ぎてなお現地に足を運び、魂を削って描き上げた国宝『天橋立図』と全く同じアングルから天橋立を見下ろす場所――通称『雪舟観』だった。
阿蘇海と宮津湾の深い群青の海を切り裂くように、一直線に伸びる三千六百本の緑の松並木。
それはまるで、海の中から一匹の巨大な緑の龍が、大空に向かって勢いよく身を躍らせ、天へと昇っていくかのような神々しい姿だった。
空のコバルトブルーと、海のインディゴ、そして白砂青松のコントラスト。
「……なんて、力強い景色……」
志保は胸に手を当てた。
雪舟がこの絵を描いた時、彼は老境にありながら、決して平穏無事な人生を送っていたわけではなかった。
応仁の乱の戦火を逃れ、中国(明)へ渡り、幾多の苦難と激動の時代を生き抜いた末に辿り着いた境地。
荒れ狂う時代の中で、自然の悠久なる生命力を捉えようとした雪舟の筆の執念が、この雄大な風景の奥から直接語りかけてくるようだった。
「志保さん。……バッグの中のものを、お出しなさいな」
隣に立つくろまつが、静かに、しかし確信に満ちた声で促した。
志保は息を整え、肩から提げたトートバッグの底に手を伸ばした。
引き出されたのは、二つのもの。
一つは、娘・葵が描いた、破れかけたスケッチブック。
黒い雨の中で泣く母親の絵。
そしてもう一つは、半年間、一度たりとも留め金を外せなかったドイツ製の水彩絵の具箱と、白いスケッチブック、豚毛の絵筆だった。
展望デッキの木製テーブルに、道具を並べる。
カチャリと真鍮の留め金に指をかけた瞬間、志保の心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされた。
――ガタガタガタッ!
右手が、激しく痙攣を始めた。
指先が引き攣り、手首が強張り、まるで重い鉄の鎖で縛り付けられたかのように固まっていく。
恐怖。罪悪感。
『お前が描いているのは、読者を騙すためのペラペラのファンタジーだ』
元夫の冷酷な罵声が耳の奥でフラッシュバックする。
「……っ! だ、駄目……! やっぱり、描けない……! 指が……言うことを聞かないの……!」
志保は涙を滲ませ、震える右手を左手で必死に押さえつけた。
筆を握ることすらできない。
自分はやっぱり失格なのだ。娘を泣かせた罪深い女に、再び筆を執る資格なんてないのだ――そう諦めかけた、その時だった。
――ふわり。
温かく柔らかな温もりが、志保の震える右手を包み込んだ。
くろまつだった。
くろまつは両手で志保の強張った右手を優しく包み込み、自らの胸元へと引き寄せた。
和服ドレスの奥から、トクン、トクンと力強い鼓動と、白檀と松の清らかな香りが伝わってくる。
「怖がらんでよろし。……もう、自分を責めるのはおやめなさい」
くろまつの松葉色の瞳が、どこまでも深く、慈愛に満ちて志保を見つめていた。
「志保さん。あなたが描くべきものはね、世間の拍手をもらうための『完璧な母親の絵』やありまへん。……家庭を守れず、激しい嵐に揉まれ、ねじれ、傷つき、涙の熱湯の中で縮み上がった……丹後ちりめんのような、等身大のあなたの心そのものどす」
くろまつは志保の指先をそっと撫でた。
「輪島塗の小椀を思い出しておくれやす。百年間割れない器を作るためには、痛みの下地を何十重にも重ねなければならなかった。……あなたがいま抱えているその苦しみは、欠陥やありまへん。娘さんへの愛を絶対に壊さないための、最強の下地なんどすえ」
「私の……最強の、下地……」
「そうどす。……娘の葵ちゃんが本当に待っているのは、遠くで泣いている立派な作家先生やありまへん。ボロボロになりながらも、自分のために温かいスープを作ってくれる、世界でたった一人の、大好きなお母ちゃんの温もりどす!」
くろまつの温かい手のひらから、熱いエネルギーが志保の指先へと流れ込んできた。
硬直していた筋肉が、まるで春の雪解けのように、じわりと解けていく。
志保は深呼吸をした。
右手で、水彩筆を一本、しっかりと握り締めた。
震えは――止まっていた。
パレットに水を垂らし、絵の具を溶く。
天橋立の海を映した深い藍色。
大空の突き抜けるような青。
三千六百本の黒松が宿す力強い常緑。
そして、丹後ばらずしの二段重ねのすし飯と錦糸卵が放っていた、あの温かく優しい黄金色。
――サッ……サラサラサラッ!
筆先が、白い画用紙の上を滑った。
迷いはなかった。
頭で考えるのではなく、丹後の海と松風が、ちりめんのシボが、千代の笑顔が、輪島の朱の器が、志保の筆を自然と導いていく。
紙の上に現れたのは、一つの大きな、木造の舟屋のようなおうちだった。
その舟屋の真ん中には、湯気をもうもうと立ち上げる、温かいスープの大鍋が据えられている。
スープの色は、野菜と魚の旨味がたっぷりと溶け出した黄金色。
そしてその鍋の横で、嵐で羽を痛めた小さな青い小鳥を、ボロボロになりながらも翼を広げて優しく抱きしめている、一羽の母鳥の姿――。
母鳥の翼には、無数の傷跡やねじれがある。
完璧な美しい鳥ではない。
だがその瞳には、どんな嵐からも絶対に我が子を守り抜くという、揺るぎない覚悟と無償の愛の光が宿っていた。
絵の下に、志保は震える手で、しかし力強く文字を書き添えた。
――『うみのスープのおうち』
――『あおいちゃんへ。どんなにあらしがふいても、ママはここで、ずっとあたたかいスープをつくってまっているよ』
カチリ。
筆を置いた瞬間、志保の目から涙が一滴、紙の端へと落ちて滲んだ。
だがそれは、悲しみの涙ではなかった。
魂が生き返った歓喜の涙だった。
「……描けた。私……描けたよ、くろまつさん……!」
くろまつは優しく微笑み、志保の肩を抱きしめた。
「ええ……本当に、素晴らしい絵どす。……これこそが、あなたの命そのもの。海の京都があなたに授けた、新しい愛の物語どすえ」
空を見上げると、初夏の太陽が眩いばかりの光を降り注ぎ、天橋立の松並木が、まるで祝福するようにサワサワと緑の枝を揺らしていた。




