第157話:地酒『玉川』の琥珀、百年の時を越える酵母の力
伊根の舟屋で奇跡のような夜を過ごした志保は、翌朝、再びくろまつとともに丹後半島の西側――久美浜の地へと向かっていた。
日本海から砂州によって切り離された穏やかな汽水湖・久美浜湾を望む古い港町。
白壁とベンガラ格子の商家が連なる街道の一角に、天保十三年(1842年)創業の歴史を誇る名門蔵――『木下酒造』が重厚な杉玉を掲げていた。
「志保さん、海の京都の旅を締めくくる前に、ぜひ味わっていただきたい『奇跡の一滴』がございますのや」
くろまつに導かれて蔵の敷地内へ入ると、ひんやりとした土蔵の空気の中に、甘酸っぱい果実のような吟醸香と、深く熟成した味噌や醤油にも似た芳醇な発酵香が混ざり合って漂っていた。
蔵の奥の試飲ラウンジで、くろまつが一升瓶から小さな脚付きのクリスタルグラスへと、トクトクと液体を注いだ。
その液体を見た瞬間、志保は目を見張った。
「……えっ? これ、日本酒なの……?」
グラスの中に揺らめいていたのは、日本酒特有の透明や白濁した色ではなかった。
初夏の陽光を透かして、まるで上質なヴィンテージの貴腐ワインや、長期熟成されたシェリー酒のように艶やかな――深い『琥珀色』だったのだ。
「ふふっ、見事な色どすやろ。……これが、木下酒造が誇る世界的な銘酒『玉川』の中でも、ひときわ異彩を放つ幻の酒――『Time Machine 1712(タイムマシン)』でございますえ」
「タイムマシン……? 江戸時代の年号かしら」
「その通りどす」
くろまつが微笑みながらグラスを差し出した。
「江戸時代中期、正徳二年(1712年)に刊行された『日用食鑑』という文献に記されていた、古代の酒造り手法を忠実に復刻した純米酒なんどす。……現代の日本酒に比べて、なんと三倍もの米を贅沢に使い、江戸時代そのままの濃厚な仕込みで醸されておりますのや」
志保はグラスを鼻先に近づけた。
――フワァッ……。
立ち上ってきた香りに、思わず息を呑んだ。
ドライフルーツ、干し葡萄、黒蜜、キャラメル、そして焼いたトーストのような香ばしい熟成香。
グラスを傾け、唇を湿らせるように一口含んでみる。
――ッッ!?
「……っ! 甘い……! 信じられないくらい濃厚なのに、全然くどくない……!」
舌の上に落ちた瞬間、濃厚な蜂蜜のようにとろりとした極上の甘みが口いっぱいに広がった。
だが、単に甘いだけではない。
米本来が持つ強烈なアミノ酸の旨味と、力強く爽快な天然の有機酸(リンゴ酸やコハク酸)が後から怒涛の勢いで押し寄せ、濃厚な甘みを完璧なバランスで引き締め、喉の奥へと滑らかに引き連れていく。
余韻には、まるで極上のデザートワインを飲んだ後のような、気品ある芳醇な香気だけが長く、長く漂い続けていた。
「……なんて美味しいの……。これがお米と水だけで作られているなんて、信じられないわ……」
「そうでしょ。そしてね、志保さん。この『玉川』を醸している杜氏さんが誰だか、ご存知どすか?」
「杜氏さん……? 丹後の職人さんではないの?」
「いいえ。……イギリス出身のフィリップ・ハーパーさんという方なんどす」
「イギリス人の……杜氏さん!?」
志保は目を丸くした。
「ええ。日本酒に魅せられて海を渡り、外国人として初めて日本の杜氏になられた方どす。……ハーパーさんの酒造りの真髄はね、『自然の生命力を徹底的に信じ切ること』なんどす」
くろまつは蔵の太い梁を見上げながら、静かに語り始めた。
「現代の酒造りはね、研究室で純粋培養された人工の『協会酵母』をタンクに添加して、温度をコンピューターで厳密に管理して造るのが主流どす。そうすれば、失敗することなく、安定して綺麗な味の酒ができます。……でも、ハーパーさんはあえて、昔ながらの『生酛純米・自然仕込み』に挑まれたんどす」
「自然仕込み……?」
「そう。人工の酵母を一切添加せんと、この蔵の梁や土壁に何百年も棲みついている『天然の蔵付き酵母』がタンクの中に降りてくるのを、ただじっと待つんどす。温度管理も過度にせず、自然の気候のままに発酵させる。……当然、どんな酵母が働くか、どんな味になるか、人間にはコントロールできしまへん。途中で腐ってしまうリスクと常に隣り合わせの、命がけの酒造りどす」
くろまつは志保の琥珀色のグラスを見つめた。
「でもね、人間の浅知恵によるコントロールを手放し、自然の力、酵母の命を信じ切った時……酒は、人間の計算を遥かに超えた、とてつもない生命力と複雑な深みを宿すんどす。何年寝かせても決して劣化せず、むしろ時間を味方につけて、年を追うごとに黄金色に輝き、芳醇な奇跡を起こす……。それが、このお酒なんどすえ」
――時間を、味方につける。
――人間のコントロールを手放し、命を信じる。
その言葉が、志保の胸の奥底で、静かに鐘のように鳴り響いた。
(私は……すべてを自分の手でコントロールしようとしていた……)
絵本の評価も、仕事のスケジュールも、娘の成長も、家庭の幸せも。
すべてを自分の思い通りに動かそうとして、思い通りにいかない現実に苛立ち、もがき苦しんでいた。
だが、本当の愛や信頼は、無理に力づくでコントロールするものではなかったのだ。
娘・葵との絆も同じだ。
今すぐ元通りに修復しようと焦る必要はない。
離れていても、自分ができる限りの真心を込め、娘の健やかな成長を信じ、時間をかけてじっくりと発酵させていけばいい。
どんな苦難の年月も、信じて待ち続ける心があれば、いつかこの琥珀色のお酒のように、かけがえのない芳醇な絆へと熟成していくはずなのだ。
「……時間を、味方にするのね」
志保はグラスを干し、ふうと温かい息を吐いた。
五臓六腑がポカポカと温まり、指先の冷えが完全に消え去っていた。
「そうどす。……さあ、志保さん。心も体も、海の京都の恵みで満たされましたな。……いよいよ、最後の場所へ参りましょ」
くろまつが立ち上がり、優しく微笑みかけた。
「大いなる天橋立を、天の高みから見下ろす場所へ。……あなたのその右手で、新しい扉を開く時がやってまいりましたえ」




