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第156話:輪島塗の朱の小椀、能登から届いた母娘の祈り

伊根の舟屋の奥の座敷。

 海に面した格子戸の外からは、チャプン、チャプンと静かな潮騒が途切れることなく響いていた。

 卓の上には、千代が腕を振るった伊根の素朴で贅沢な海の幸が並べられていた。

 夕方に水揚げされたばかりの寒ブリの厚切り刺身、サザエのつぼ焼き、地元で採れた岩もずく酢、そして土鍋で炊き上げられた丹後コシヒカリ。

 

 だが、その食卓の中央に千代が恭しく置いた一つの器を見た瞬間、志保の視線はそこに釘付けになった。

 

「……あっ」

 

 それは、小さな、しかし息を呑むほど気品に満ちた、朱塗りの汁椀だった。

 朱といっても、派手な赤ではない。

 夕暮れの茜色を幾重にも吸い込んで深みを増したような、しっとりと落ち着いた真紅の漆肌。

 卓の行灯(あんどん)の光を浴びて、艶やかな光沢が漆黒の座敷の中にぽっかりと温かい灯火のように浮かび上がっている。

 

「どうぞ、冷めないうちに。伊根の根昆布と焼きカマスで出汁をとった、アオサのお味噌汁だよ」

 

 千代に促され、志保は両手でその朱の小椀を持ち上げた。

 

 ――ッ!

 

 掌に触れた瞬間、言葉を失った。

 熱い味噌汁が入っているはずなのに、器の外側は熱すぎず、まるで人の体温のようにじんわりとした優しい温もりだけが伝わってくる。

 木肌を覆う漆の層は吸い付くように滑らかで、手の中にすっぽりと収まる絶妙な丸み。

 口を椀の縁につけると、漆独特の芳醇な木の香りと、磯の爽やかなアオサの匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。

 出汁を一口啜ると、身体の芯の冷えがすうっと溶け、五臓六腑が温かい感謝で満たされていく。

 

「……なんて、優しい口当たり……。それに、このお椀……見ているだけで、胸の奥が熱くなってきます」

 

 志保が呟くと、千代は愛おしそうにその器を見つめ、静かに語り始めた。

 

「わかるかい。……これはね、能登半島の輪島から届いた、宝物のお椀なんだよ」

「輪島……? 能登の、輪島塗ですか?」

「そうさ」

 千代は深く頷いた。

 

「作ってくれたのはね、輪島で代々塗師(ぬし)の看板を守ってきた、神谷早苗(かみや さなえ)さんというお母さんと、その娘さんなんだよ」

 

 千代の言葉に、隣に座っていたくろまつが、静かに目を細めて小さく頷いた。

 

「神谷さん母娘はね、あの大地震で、代々受け継いできた工房も、道具も、乾かしていた漆器も、すべてを一瞬で失ってしまわれたのよ。避難所の冷たい床の上で、お母さんは『もう私の代で輪島塗は終わりだ』と絶望して、一度は漆刷毛を捨てる決意をされたそうだ」

「すべてを……失ったのに……」

 志保は息を呑んだ。

 

「そうさ。だけどね、その絶望の淵でお母さんの手を握りしめたのが、娘さんだったんだよ。『お母さんの漆は絶対に死なない。私がお母さんの手になるから、もう一度一緒に器を作ろう』ってね。……二人は瓦礫の中から一本のヘラを掘り出し、仮設のバラック工房で、寒さに震えながら、手を取り合って再び漆を塗り始めたんだ」

 

 千代は志保の持つ椀の底を指差した。

 椀を少し傾けると、底の縁に、極めて繊細な金粉の線で、可憐な「朝顔の花」が彫り込まれていた。

 

「これはね、神谷母娘の屋号『輪島の朝顔』の沈金(ちんきん)だよ。どんなに暗い夜の闇の中でも、朝が来れば必ず上を向いて大輪の花を咲かせる……。そんな祈りが込められているのさ」

 

 千代は優しく志保の目を見つめて言った。

 

「志保さん、輪島塗がなぜ日本一丈夫で、百年間毎日の熱い味噌汁に耐えられるか、知っているかい?」

「……いいえ……」

「下地をね、何重にも、何重にも塗り重ねるからだよ」

 

 千代は指を折って数え上げた。

 

「まず、木地の上に麻布を漆で貼り付ける『布着せ(ぬのきせ)』をする。これで木が割れるのを防ぐんだ。その上に、輪島特産の珪藻土を焼いて粉にした『地の粉(じのこ)』を生漆に混ぜて、一辺地、二辺地、三辺地と、粒子の荒いものから細かいものへと、何十回も塗り重ね、研ぎ、乾かす。……その上にようやく中塗りをして、研ぎ澄まし、最後に一番純粋な上塗りの漆を塗るんだ。完成するまでに、百以上の工程、半年以上の月日がかかる」

 

 千代は椀を優しく撫でた。

 

「プラスチックの器や、安物のウレタン塗りの器なら、機械で一回吹き付ければすぐに出来上がる。見かけはツルツルして綺麗だがね、熱い汁を注げばすぐに変形し、落とせば簡単にひび割れてゴミになる。……だけど、輪島塗は違う。激しい傷や割れを防ぐために、見えない下地を何十重にも重ねて、時間をかけてじっくりと固める。だからこそ、世代を超えて子や孫へと受け継がれる、絶対に割れない本物の器になるんだよ」

 

 ――見えない下地を、何十重にも重ねる。

 

 その言葉が、志保の全身を貫いた。

 

(私の、この痛みは……私のこの苦しみは……)

 

 志保の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 ボロボロと零れ落ちる涙が、朱の小椀の表面を濡らす。

 

「う……ううっ……! 私……私、間違っていなかったんでしょうか……!?」

 志保は小椀を胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。

 

「完璧な母親になれなくて……娘を泣かせて……家庭を壊して……。私の人生は、もう取り返しのつかないゴミになってしまったんだと、ずっと思っていました……! でも……この痛みも、娘への申し訳なさも……全部、私がこれから生きていくための……下地なんですか……!?」

 

 くろまつがそっと志保の肩を抱き寄せた。

 その温かい手のひらが、震える志保の背中を優しく包み込む。

 

「そうどすえ、志保さん。……何一つ傷つかずに平坦に生きてきた人の絵にはね、人の魂を救う力は宿りまへん。……あなたが娘さんを想うて、血の涙を流しながら塗り重ねたこの後悔と痛みの下地こそが、誰よりも深く、誰よりも温かい、本物の漆の層になるんどす」

 

「葵……! 葵……っ!」

 

 志保は朱の小椀に顔を埋め、娘の名前を叫び続けた。

 伊根の海の波の音が、母の慟哭をすべて吸い取るように、静かに、優しく寄せては返していた。

 暗い夜の闇の底で、志保の心の中に、何重にも塗り重ねられた本物の愛が、静かに、確かに息を吹き返していた。

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