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第155話:伊根の舟屋の夕波、波打ち際に立つ蔵の記憶

天橋立駅から連絡の車に揺られ、丹後半島の北東端へと海岸線を北上していく。

 急峻な山並みがそのまま日本海の荒波へと切れ落ちるリアス海岸のワインディングロードを抜け、トンネルをくぐり抜けた瞬間、志保の目の前に息を呑むような光景が広がった。

 

 ――伊根(いね)湾。

 

 外洋の荒れ狂う日本海とは完全に遮断された、青く静まり返った円形の湾。

 その穏やかな海を取り囲むように、およそ五キロメートルにわたって、海面すれすれの岸辺にびっしりと立ち並ぶ、黒々とした杉皮葺きの木造建築群――約二百三十軒もの『舟屋(ふなや)』だった。

 

 一階は海に向かって直接口を開けた舟のガレージ。

 海からそのまま船を引き上げられるようにスロープが設けられ、波が床下をチャプチャプと洗い流している。

 そして二階は、網の手入れや道具の収納、あるいは客間として使われる生活の場。

 大地の上に家を建てるのではなく、海の上に直接家を浮かべたような、世界でも類を見ない「海と人が一体となった集落」。

 

「すごい……。海と家との間に、堤防も道路もないのね……」

 志保は車を降り、海沿いの細い路地で立ち尽くした。

 

「そうどす。伊根湾はね、南側に入り口があるすり鉢状の天然の良港で、湾の入り口に青島(あおしま)という島が防波堤のように浮かんでおりますのや。そのため、外海がどれほど十メートルの大時化(しけ)に見舞われても、湾の中はまるで湖のように静まり返り、潮の干満の差も一年を通じてわずか五十センチ足らず。……だからこそ、何百年もの間、波に呑まれることなく、海の上に家を建てて暮らすことができたんどす」

 

 くろまつが和服の裾を翻し、海辺に佇む一軒の古い舟屋へと歩み寄った。

 『料理宿 鍵屋』。

 築百年の舟屋を改装した、一日一組だけの小さな宿だった。

 

「千代さん、お邪魔いたしますえ」

 くろまつが声をかけると、奥の板間から、腰の曲がった小柄な老女が柔らかな足取りで現れた。

 

「おお、くろまつさんかい。よう来てくだすった。……まあまあ、そちらのお客さんも、遠いところをようこそ伊根へ」

 

 宿を一人で守る老女・千代(ちよ / 76歳)だった。

 深く刻まれた目尻の皺と、長年の潮風を浴びて日焼けした褐色の肌。

 だがその瞳は、伊根の海のようにどこまでも澄み渡り、深い慈愛に満ちていた。

 

「さあさあ、風が冷えてきた。海辺の濡れ縁でお茶でも飲んでくだされ」

 

 千代に促され、志保は舟屋の一階の奥――海に向かって張り出した濡れ縁の板張りに腰を下ろした。

 足元からわずか三十センチ下には、夕暮れ空を映して茜色と群青が溶け合う伊根の海が、静かに横たわっていた。

 

 ――チャプン……チャプン……。

 

 微かな波の音が、床板の隙間から耳元へと響いてくる。

 寄せては返す波のリズムは、人間の心臓の鼓動や、母親の胎内の音と驚くほど似通っていた。

 千代が運んできてくれたのは、地元の番茶と、伊根名物の素朴な干し柿。

 湯呑みから立ち上る香ばしい湯気が、冷たい夕風に白く揺れる。

 

「……落ち着く音ですね。海が、こんなにも静かで優しいなんて、知りませんでした」

 志保が湯呑みを両手で包み込みながら呟くと、千代は細い目を細めて海を見つめた。

 

「そうかい。……みんな、日本海といえば荒々しい冬の白波ばかりを思い浮かべるがね。伊根の海は、いつでも母親の腕の中のように穏やかだよ。……うちのじいさんも、息子も、この濡れ縁から舟を出して、毎日魚を獲って帰ってきたもんさ」

 

 千代は遠い昔を懐かしむように、板壁に飾られた古い白黒写真を指差した。

 そこには、大漁旗を掲げた木造船の上で笑う夫と、幼い息子の姿があった。

 

「だけどね、海と生きるというのは、楽しいことばかりじゃないよ。突然の嵐で舟が転覆しかけたこともあれば、魚が全く獲れずに冬を越すのがやっとだった年もあった。……それでもね、この舟屋の柱にしがみついて、波の音を聞きながら、じっと耐えて朝を待つんだ。『夜が明ければ、海はまた新しい魚を連れてきてくれる』って信じてね」

 

「じっと、耐えて朝を待つ……」

 志保は千代の横顔を見つめた。

 

「そうさ。人間なんてのは、自然の前じゃちっぽけなもんさ。自分の思い通りに海を動かそうとしたって、波に呑まれて終わりだよ。……大切なのはね、波に逆らわず、海がくれる恵みをありがたく受け取り、辛い時は身を寄せ合って嵐が過ぎ去るのを待つことさ。……あんた、何か重いものを背負い込んできたんだろう? 都会の人は、みんな一人で何もかも背負おうとするからねえ」

 

 千代の温かい言葉に、志保の胸がチクリと痛んだ。

 自分は、一人で何もかも背負い込もうとしていた。

 仕事も、名声も、育児も、完璧にこなそうとして、少しでも思い通りにいかないと苛立ち、一番大切にしなければならない家族に八つ当たりした。

 自分の傲慢さが、嵐を引き起こしていたのだ。

 

 夕日が完全に山の端へと沈み、伊根湾全体が深い藍色の夜の帳に包まれた。

 対岸の舟屋の軒先に、ポツポツとオレンジ色の裸電球が灯り始める。

 暗い水面に揺れる無数の光の筋。

 静寂の中、どこからともなく、漁師たちが夕餉を囲む笑い声と、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。

 

「さあ、お湯が沸いたよ。……今夜はね、能登から届いた特別な宝物で、温かい夕飯を食べていただくよ」

 千代が立ち上がり、台所へと向かった。

 

 くろまつが静かに微笑み、志保の肩に手を置いた。

 

「志保さん。……今夜、あなたが出会う器にはね、遠く離れた能登の海から繋がれた、母と娘の奇跡の祈りが宿っておりますえ」

 

 波の音に包まれた舟屋の夜。

 閉ざされていた志保の魂の扉を大きく開け放つ、運命の夕餉が始まろうとしていた。

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