第154話:宮津の金樽鰯、黄金オイルに閉じ込めた生命
涙を流し尽くした後の車内には、不思議な静けさと、清々しい安らぎが漂っていた。
おしぼりで涙を拭い、息を整えた志保の前に、くろまつが微笑みながら次の一皿を運んできた。
白い角皿の上、熱々の耐熱ココット皿の中で、黄金色のオイルがグツグツと微かな音を立てている。
「さあ、お次は温前菜でございます。宮津湾の至宝――『金樽鰯』の極上オイルサーディン・オーブン焼きでございますえ」
「オイルサーディン……? 缶詰のイメージしかなかったけれど、こんなに良い香りがするのね……」
ココット皿から立ち上るのは、焦がしたハーブとニンニク、そして澄み切った植物油が熱せられた上品な芳香。
皿の中には、頭と内臓を丁寧に取り除かれた銀色に輝く小鰯が、隙間なく整然と並べられていた。
「どうぞ、軽くトーストしたこちらの天然酵母バゲットに乗せて、オイルごとすくってお召し上がりくださいませ」
勧められるまま、志保はスプーンで鰯を一尾すくい上げた。
驚くほど肉付きが良い。
一般的な缶詰の鰯のように身が崩れてパサつく気配はなく、ふっくらと丸みを帯び、身の表面はオリーブオイルよりもずっとサラリとした、透明な黄金色の油をまとっている。
バゲットのカリカリとしたクラスト(皮)の上に乗せ、息を吹きかけながら口へと運んだ。
――サクッ、ジュワワッ……!
「……っ!?」
志保は目を見張った。
噛み締めた瞬間、バゲットの香ばしい小麦の香りを突き破り、鰯の身から驚くべき旨味のジュースが溢れ出してきたのだ。
骨は跡形もなくホロホロと柔らかく崩れるのに、身の繊維にはキュッと心地よい弾力が残っている。
何より驚愕したのは、オイルの軽やかさと、鰯自体の味の濃さだった。
青魚特有の生臭さや酸化した油の嫌な重さは微塵もない。
ローリエの清涼感とピリッとした鷹の爪の刺激をまとったオイルが、鰯の濃厚なアミノ酸を極限まで引き立て、喉の奥へと滑らかに消えていく。
「……美味しい! こんなオイルサーディン、生まれて初めて食べたわ……! 鰯って、こんなに上品で奥深い味がするものなの!?」
「ふふっ、その驚きが嬉しいんどす」
くろまつが嬉しそうに胸元の松葉のかんざしを揺らした。
「この宮津湾と阿蘇海を結ぶ狭い海峡で獲れる真鰯はね、古くから『金樽鰯』と呼ばれて珍重されてきました。プランクトンが極めて豊富な閉鎖水域で育つため、一般的な外洋の鰯に比べて、頭が小さく、胴回りが丸々と太り、全身に極上の脂を蓄えているんどす」
くろまつは窓の外の穏やかな内海を指差した。
「そして、このオイルサーディンの製法。……水揚げされたばかりの新鮮な鰯を、熟練の職人さんたちが一尾ずつ手作業で頭とワタを落とし、塩水に漬けて身を締め、最高級の『綿実油』に沈めて、低温で何時間もじっくりと油煮にするんどす。安価なサラダ油や大豆油ではなく、綿の種から搾り取った最高純度の綿実油を使うからこそ、油が鰯の旨味を邪魔せず、さらりとした黄金のコクを生み出すのや」
志保は二尾目の鰯をバゲットに乗せ、添えられた彩り豊かな野菜のサラダに目を留めた。
地元で採れたシャキシャキの赤玉ねぎ、ルッコラ、完熟トマト。
そこに回しかけられていたのは、ほんのり琥珀色をした、ツンとこないまろやかな酸味を持つドレッシングだった。
「このお酢も、とてもフルーティーで優しいわね」
「お気付きになられましたか。宮津が世界に誇る飯尾醸造さんの『富士酢』どす。無農薬のお米をふんだんに使い、昔ながらの静置発酵で一年以上かけてじっくり熟成させたお酢なんどすえ。鰯の力強い脂を、このお酢の柔らかな酸味がふわりと受け止め、後味を極上の爽快感へと昇華させるんどす」
鰯を噛み締め、サラダを味わい、冷えた宮津の湧き水を喉へと流し込む。
胃の奥から、じんわりと温かい生命のエネルギーが湧き上がってくる。
「ねえ、志保さん。この鰯たちを見てごらんなさい」
くろまつが静かにココット皿の黄金のオイルを見つめた。
「海の中では、大きな魚に追われ、網に追われ、必死で命を繋いできた小さな命どす。……でもね、その小さな鰯が、こうして職人さんの手で丁寧に磨かれ、黄金の油に包まれて、人の心を芯から震わせる『至高の逸品』へと生まれ変わった。……この世の中にね、無駄な命、無駄な苦しみなんて、一つもあらしまへん」
「無駄な……苦しみは、ない……」
「そうどす。……あなたが仕事に追われ、家庭に悩み、娘さんと離れ離れになって流したあの激しい涙も、決して無駄な過ちなんかやありまへん。……その苦しみの海を必死で泳ぎ抜いたからこそ、あなたの心には、人の痛みがわかる『深み』という黄金の油が満たされているんどすえ」
志保はそっと自分の胸に手を当てた。
これまで「自分は娘を捨てた最悪の母親だ」「私の人生は失敗だった」と、自らを責め立てる刃にしかならなかった過去の傷口。
だが、その傷口から流れた血と涙が、いま、丹後の食と風景によって、あたたかな「人生の厚み」へと静かに塗り替えられていくのを感じていた。
「……ありがとう、くろまつさん。……私、もう少し、この旅を続けたい」
「ええ、もちろんよろし。……さあ、列車は天橋立を抜け、丹後半島の最北端――舟屋の里・伊根へと向かいますえ。今夜は、波の音を枕に、あなたの魂の根っこを深く掘り下げるお宿へご案内いたしましょ」
窓の外には、夕暮れの茜色に染まり始めた宮津湾の美しい波頭が、光の粒子となって揺らめいていた。




