第153話:宝石の如き丹後ばらずし、鯖のおぼろが紡ぐ母の味
由良川を渡り終えた『丹後くろまつ号』の車内には、いつの間にか食欲をそそる芳醇な香りが満ち満ちていた。
厨房の奥から漂ってくるのは、甘辛く煮詰められた醤油と味醂、そして香ばしく炒られた魚の旨味と生姜の清涼な香り。
ダイニングの各テーブルには、白い麻のクロスが敷かれ、磨き上げられた漆塗りの箸とガラスのウォーターグラスが整然と並べられていた。
「お待たせいたしました。丹後の海と大地の恵みを結びました、くろまつ特製ランチコースの始まりでございます」
くろまつが優雅な所作で一礼し、志保の前のテーブルに、一つの美しい器を置いた。
それは、地元のヒノキで作られた四角い重箱のような器――『まつぶた』と呼ばれる伝統の木箱だった。
蓋を開けた瞬間、志保の口から思わず歓声が漏れた。
「……わああっ……! なんて綺麗……!」
それは、まるで色鮮やかな伝統工芸の「蒔絵」か、初夏の百花繚乱の花壇をそのまま箱の中に閉じ込めたかのような、息を呑むほど華やかな光景だった。
器の表面を埋め尽くす、黄金色に輝く極細の錦糸卵。
じっくりと出汁と砂糖で煮含められた黒々とした干し椎茸の細切り。
初夏の風を思わせる鮮やかな緑のさやえんどう。
淡い桜色をした花かまぼこに、キリリと全体を引き締める紅生姜の千切り。
そして、それらの色とりどりの具材の隙間から、香ばしい茶褐色のそぼろが顔を覗かせていた。
「これが、丹後地方に何百年も受け継がれてきた究極の郷土寿司――『丹後ばらずし』でございます」
くろまつが微笑みながら、漆塗りのしゃもじを志保に差し出した。
「普通、全国各地のばら寿司といえば、すし飯の上に生の魚介や具材を散らしたものを想像されますやろ? ……でも、丹後のばらずしは全く違う構造をしておりますのや。どうぞ、しゃもじで底までまっすぐにすくい取って、お皿に取り分けてみておくれやす」
志保はしゃもじを手に取り、角から深く垂直に刃を入れた。
手応えに、不思議な層の感触がある。
そっと持ち上げて小皿に移すと、その断面の美しさに二度目の驚きが訪れた。
「……二段に……なっているの?」
「そうどす!」
くろまつが誇らしげに目を細めた。
「一番底に、丹後産コシヒカリと地酢で仕立てたツヤツヤのすし飯。その上に、敷き詰められているのが『鯖のおぼろ』。さらにその上にもう一度すし飯を重ね、もう一段『鯖のおぼろ』を敷き詰めて、最後に錦糸卵や椎茸を飾る……。すし飯と鯖のおぼろが、見事な二段重ねのミルフィーユ構造になっているんどす」
「鯖の……おぼろ……」
「ええ。日本海で獲れた新鮮な鯖を三枚におろし、骨を一本一本毛抜きで丁寧に抜き取ってから、身を細かくほぐし、生姜、地醤油、地酒、ざらめ糖とともに、大鍋で焦げ付かぬよう何時間も木べらで炒り炊きにしたものどす。余分な脂を落とし、旨味だけを極限まで凝縮させた、丹後のお母ちゃんたちの秘伝の味どすえ」
志保は割り箸で、すし飯と二層の鯖のおぼろ、そして錦糸卵を一度にすくい取り、口の中へと運んだ。
――ハフッ、モグッ……。
「……っっ!!」
噛み締めた瞬間、志保の全身を電撃のような多幸感が貫いた。
まず広がるのは、丹後米の一粒一粒がしっかりと立った、上品な酸味と甘みを持つすし飯の爽快感。
そして、すし飯が口の中でハラリとほどけると同時に、二段の層から解き放たれる『鯖のおぼろ』の圧倒的な旨味の津波!
魚臭さや生臭さは微塵もない。
生姜のキリッとした清涼感が効いた甘辛い醤油の風味が、鯖特有の濃厚な青魚のアミノ酸と溶け合い、噛むほどにジワリ、ジワリと深いコクが舌の奥へ染み渡っていく。
そこへ、ふんわりと甘い錦糸卵の優しさと、椎茸の含め煮の重厚な出汁の旨味、さやえんどうのパリッとした小気味よい食感、そして紅生姜の辛みが絶妙なアクセントとなって重なり合う。
「……っ、美味しい……! 信じられないくらい、美味しい……!」
志保は夢中になって二口目、三口目を口に運んだ。
こんなに豊かな味の重なりを、これまでの人生で食べたことがあっただろうか。
高級フレンチや料亭の洗練された料理とも違う。
それは、人間の血肉に直接語りかけてくるような、底知れぬ慈愛と温もりの塊だった。
「丹後のばらずしはね、別名『ハレの日の母の愛』とも呼ばれているんどす」
くろまつは、小鉢に添えられた地元の赤出汁を勧めながら、静かに語りかけた。
「昔、丹後は交通の便が悪く、雪深い冬には陸の孤島になりました。冷蔵庫のない時代、海から遠い山あいの村でも、祭りや祝い事の日にご馳走を食べさせてやりたいと、母たちが知恵を絞って生み出したのがこのお寿司どす。……鯖の小骨を一本ずつ抜くのにも、大鍋の前で汗を流しながら炒り続けるのにも、大変な手間と時間がかかります」
くろまつの松葉色の瞳が、慈愛に満ちて細められる。
「何時間も鍋をかき混ぜながら、お母ちゃんたちは何を考えていたと思います? ……『都会から帰ってくる子どもらに、腹いっぱい美味いもんを食べさせたい』『怪我なく元気に育ってほしい』……ただそれだけ。見返りなんて何一つ求めず、ただ相手の喜ぶ顔だけを想うて、何重にも旨味を重ねていく。……この二段重ねのすし飯はね、母が子どもに注いだ『無償の祈りの重み』そのものなんどす」
――無償の、祈りの重み。
その言葉が、志保の胸に深く、痛いほどに突き刺さった。
ぽろぽろと、大粒の涙が目から溢れ出し、小皿の上のすし飯の上に落ちた。
「私……私ね、くろまつさん……」
志保はしゃもじを握りしめたまま、声を詰まらせた。
「娘の葵が小さかった頃……絵本の締め切りが重なって、徹夜続きで……。冷蔵庫には卵しかなくて、朝ごはんに、焦げた甘い卵焼きを一つだけ焼いてあげたの……」
記憶が溢れ出す。
パジャマ姿の小さな娘が、焦げた卵焼きを小さなフォークで口に運び、満面の笑みで言ったのだ。
『ママのたまごやき、せかいいちおいしい! ママ、おしごとがんばってね!』
「あの子は……あんな焦げた卵焼き一つで、私を世界一の母親にしてくれたの……。それなのに私は、絵本の中の『完璧な家族』ばかりを追いかけて、あの子の笑顔を、あの子の小さな手を、置き去りにしてしまった……!」
志保は机に突っ伏し、肩を震わせて泣きじゃくった。
くろまつは何も言わず、ただそっと志保の背中に温かい手を添え、優しくさすり続けた。
車窓の外には、穏やかな宮津湾の青い海が広がり、列車の刻む規則正しいジョイント音が、泣きじゃくる母親の子守唄のように寄り添っていた。




