第152話:由良川橋梁の水鏡、海を渡る一筋の鉄路
与謝野のちりめんの里を後にした志保とくろまつは、再び『丹後くろまつ号』の車内へと戻っていた。
列車は宮津湾を東へと回り込み、丹後神崎駅を通過すると、徐々に速度を落とし始めた。
「さあ、志保さん。窓の外を、瞬きせんと見ておくれやす」
くろまつが微笑みながら、テーブルのブラインドを一番上まで押し上げた。
その瞬間、視界を遮っていた木立が途切れ、目の前に広大な青の世界が広がった。
「……あっ!」
志保は思わず息を呑み、座席から身を乗り出した。
そこは、京都府北部を潤す母なる大河――由良川の河口だった。
川幅およそ五百メートル。
川が日本海(若狭湾)へと注ぎ込むその雄大な水面の上に、信じられない鉄路が架かっていた。
大正時代に造られた、全長五百五十一メートルの赤褐色を帯びた単線鉄橋――『由良川橋梁』。
その鉄橋には、左右を遮るトラスの骨組みもなければ、コンクリートの高欄や防風柵すら存在しない。
水面からの高さは、わずか六メートル足らず。
満潮時には、手を伸ばせば波頭に触れられそうなほど水面すれすれの場所に、ただ二条のレールと枕木だけが、海に向かって一本の銀の糸のように真っ直ぐに伸びていた。
ガタン、ゴトン……ガタン、ゴトン……。
列車は時速二十キロほどの、歩くような極低速で鉄橋へと進入していく。
車窓の両側には、窓枠のすぐ下まで満々と水を湛えた由良川の水面が迫っていた。
まるで、鉄路が水底に没し、漆黒の列車がそのまま水の上を静かに滑走しているかのような、奇跡的な浮遊感。
「すごい……! まるで、海の上を飛んでいるみたい……」
「そうどすやろ。全国の鉄道を愛する方々が、一生に一度は見たいと願う絶景どす」
くろまつがデッキの窓を少しだけ開けると、川と海が混ざり合う汽水の、ひんやりとして瑞々しい風が吹き込んできた。
水面は風ひとつなく、鏡のように穏やかに澄み渡っている。
見下ろすと、その巨大な水鏡のキャンバスの上に、初夏の真っ青な空と純白の千切れ雲、そして――鏡のように磨き上げられたくろまつのメタリックブラックの車体が、くっきりと上下逆さまに映し出されていた。
「見てごらんなさい、あの水鏡を」
くろまつは静かに水面を指差した。
「空の青も、海の青も、すべてが水の中で一つに溶け合っております。……境目なんて、どこにもありまへん」
列車はゆっくりと、川の中央部へと進んでいく。
遮るもののない三百六十度の大パノラマ。
遠くには、山椒大夫の伝説で名高い由良ヶ岳の美しい稜線が聳え立ち、河口の先には果てしない日本海の水平線が広がっている。
「ねえ、志保さん。水と空の境目がなくなるこの鉄橋の上でね、人は一度、背負うてきたすべての『肩書き』を下ろすことができるんどす」
「肩書きを……下ろす……?」
「そうどす。『売れっ子の人気絵本作家』という重い看板も、『家庭を守れなかった失格の母親』という重い十字架も……すべては、人間が後から勝手に自分に貼り付けた名札にすぎしまへん」
くろまつの言葉が、風に乗って志保の心の最深部へと染み込んでいく。
「名札をすべて剥ぎ取った後に残る、ただ一人の人間としてのあなた自身……。娘の葵ちゃんが本当に求めていたのは、立派な賞を獲る有名な作家のお母さんでも、何でも完璧にこなすお母さんでもなかったはずどす」
「葵が、求めていたもの……」
志保の脳裏に、かつての光景が蘇った。
仕事部屋のドアを細く開け、パジャマ姿で立っていた小さな娘。
『ママ、あのね、今日幼稚園でね……』
『後にして! 今、締め切り前で大事なところなの!』
あの時、娘が欲しかったのは、豪華なオモチャでも、教訓めいた立派な絵本でもなかった。
ただ、自分の目を見て、話を聞いて、頭を撫でてくれる――たったそれだけの、温もりだったのだ。
「私は……あの子の求めていたたった一つのものを、見落としていた……」
志保は窓ガラスに額を押し当てた。
水鏡に映る自分の顔が、静かに揺れている。
「見落としていたなら、今から気付けばええんどす。失ったものは、もう二度と戻らない過去やありまへん。これから紡ぎ直すための、大切な気付きどすえ」
くろまつが志保の背中を、まるで母親のように優しく撫でた。
「さあ、由良川を渡りきったら、海の京都の本当の懐――極上の食卓へご案内いたしますえ。……傷ついた心に最も必要なのは、反省でも後悔でもありまへん。命を温める、本物の『美味しいご飯』どす!」
鉄橋を渡り終えた列車は、再び大地を踏みしめ、緑のトンネルへと吸い込まれていった。
水鏡の静寂を抜けた志保の胸には、先ほどまでの絶望的な冷たさはもうなかった。
空っぽだった胃袋が、かすかに温かいものを求めて蠢き始めていた。




