第151話:丹後ちりめんのシボ、凹凸が放つ光の陰影
天橋立から内陸へと入り、加悦谷と呼ばれる盆地に佇む与謝野町へ。
江戸から大正、昭和初期にかけての豪壮な木造建築が今なお軒を連ねる『ちりめん街道』に足を踏み入れると、どこからともなく、微かで心地よい金属の擦れ合う音が響いてきた。
――シャララララ……シャララララ……。
まるで細い銀の鈴を無数に振り鳴らしているかのような、繊細でリズミカルな高音。
街道沿いに佇む、創業二百年の伝統を誇る織元の格子戸をくぐると、その音の正体が現れた。
薄暗い土間に整然と並ぶ、木と鉄で組まれた巨大な機械――『八丁撚糸機』だった。
無数の木製ボビンが、目にも止まらぬ猛烈な速度で高速回転している。
宙を舞う極細の生糸が、回転の勢いでピンと張り詰め、水滴を弾きながら撚り合わされていく。
「ようお越しやす、くろまつさん。……お連れさんも、どうぞ奥へ入っておくれ」
迎えてくれたのは、白髪を綺麗に撫で付けた老職人――吉村(よしむら / 72歳)だった。
紺の絣の作業着に、指先は長年の生糸の扱いでカチカチに硬く引き締まっている。
「吉村さん、ご無沙汰しておりますえ。……今日はね、東京から大切な旅人さんをお連れしましたんや」
くろまつが微笑むと、吉村は志保の強張った表情を穏やかに見つめ、小さく頷いた。
「ほう……絵を描いておられる方かね。……手の指を見ればわかる。だが、今は少し、心が休んでおられるようだ」
「え……? あ、はい……」
志保は思わず、自分の右手を隠すように背中に回した。
「隠すことはねえよ。職人だろうが絵描きだろうが、生きてりゃ糸がもつれることくらい、いくらでもあるさ。……ほら、これを見てごらんなさい」
吉村は撚糸機から一本の糸を引き出し、志保の手のひらの上に載せた。
髪の毛よりも細い、純白の絹糸。
だが、指でつまんで引っ張ってみると、驚くほどの弾力があり、指を離した瞬間にクルクルッと縮れて小さな螺旋を描いた。
「丹後ちりめんの命はね、この『強撚糸』にあるんだ」
吉村は回転する機械に目をやりながら、静かに語り始めた。
「普通の絹織物は、糸にほとんど撚りをかけずに織る。だから表面はツルツルと平らで滑らかになる。……だが、丹後ちりめんは違う。緯糸に、なんと一メートルあたり三千回から四千回もの猛烈な回転をかけて、極限まで糸をねじり上げるんだ」
「一メートルに……四千回も……!?」
「そうだ。糸にとって、ねじられるというのは途方もないストレスだ。悲鳴を上げるほどに限界まで撚りをかけられた糸を使って、経糸の間に丹念に織り込んでいく。……だが、織り上がったばかりの布は、まだただの硬い平らな布にすぎない。本当の奇跡が起きるのは、この後だ」
吉村は二人を工場の奥の洗い場へと案内した。
そこには、大きな木樽からもうもうと湯気が立ち上っていた。
「――『精練』と『湯揉み(ゆもみ)』だ」
吉村は織り上がったばかりの白い反物を、熱いアルカリ性の湯の中に沈め、両手で激しく揉みほぐし始めた。
すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
熱湯の中で揉まれた反物が、まるで生き物のようにキュウウッと激しく縮み始めたのだ。
長さにして約三割、幅にして約四割も一気に収縮していく。
「糸の表面を覆っていた膠質が熱湯で溶け出すとね、極限までねじり上げられていた強撚糸が、『元に戻ろう!』として一気に激しく縮み上がる。右撚りの糸と左撚りの糸が互いに反発し合い、布の表面全体を押し上げ、無数の細かな凹凸を作り出すんだ」
湯から引き上げられ、脱水された丹後ちりめんの白生地。
吉村がそれを広げて、志保の胸の前にかざした。
「……あっ!」
志保は思わず息を呑んだ。
布の表面全体に、まるで水面のさざ波や、梨の皮の表面のような、無数の微細なシボ(凹凸)がびっしりと浮き上がっていた。
窓から差し込む自然光がそのシボに当たると、光が複雑に乱反射を起こし、平らな絹織物には絶対に真似のできない、深遠で気品に満ちた陰影のグラデーションを生み出していたのだ。
触れてみると、驚くほど柔らかく、ふんわりと空気を孕み、指先を吸い付くように包み込んでくれる。
「……なんて柔らかくて、温かい感触……。それに、光の当たり方で、布の表情がこんなにも豊かに変わるなんて……」
「そうだろう」
吉村は目尻の皺を深くして微笑んだ。
「平らでツルツルした生地はな、一見すると綺麗だが、シワになりやすいし、一度傷がついたら取り返しがつかない。……だが、丹後ちりめんは違う。最初から極限までねじられ、揉まれ、縮んで生まれた『シボ』があるからこそ、どれほど強く握りしめてもシワにならねえ。どんなに手荒に扱われても、ふわりと元の美しい姿に戻るんだ」
老職人は、志保の目を見据えて言った。
「人生も同じじゃねえのかい。……ねじり上げられるような苦しみや、熱湯の中で揉まれるような激しい挫折。平穏な時には想像もできなかったような傷や凹凸が、生きているうちに心の中に刻まれる。だがな、その傷や凹凸こそが、あんたという人間にしか出せない『深い陰影』と『しなやかな強さ』を生み出すんだよ」
「傷や凹凸が……私の、陰影……」
くろまつがそっと後ろから寄り添い、耳元で whisper した。
「完璧な平らな布やなんて、面白くもなんともありまへん。……傷つき、ねじれ、涙の熱湯の中で揉まれたあなたの心にはね、もうすでに、誰よりも美しい『シボ』が刻まれているんどすえ」
志保は、胸の中のちりめんの白生地を、ぎゅっと強く抱きしめた。
布の温もりが、冷え切っていた胸の芯を解かしていく。
完璧な母でいられなかった自分。
傷だらけで、挫折に塗れた自分。
そのすべてが、無駄な過ちなどではなく、いつか人を包み込むための「シボ」になるのだと信じたい――そう強く願う自分が、心の奥底に微かに息を吹き返していた。




