第150話:白砂青松の奇跡、天橋立の松風を聴く
福知山を出発した『丹後くろまつ号』は、緑深い大江山の山裾を縫うように北上し、やがて宮津湾の潮の香りが漂う宮津駅へと到着した。
そこから列車を離れ、くろまつの案内で志保が足を踏み入れたのは、日本三景の一つとして名高い――天橋立だった。
初夏の陽光に照らされた白砂の道。
阿蘇海と宮津湾という二つの海を分断するように、全長約三・六キロメートルにわたって伸びる砂嘴。
その細長い砂の回廊を埋め尽くすように、およそ三千六百本もの黒松が、青々とした葉を茂らせて連なっていた。
――サワサワサワ……ザザザザァァァ……。
頭上から降り注ぐのは、波の音と、松の針葉を通り抜ける風の音――古くから「松風」と呼ばれる、清冽な潮の調べだった。
都会のアスファルトの照り返しとは無縁の、松の木陰が落とす柔らかな木漏れ日。
志保はサンダルを脱ぎ、裸足になって白い砂浜に足を踏み入れた。
ひんやりとした砂の粒子が、足の裏の角質を優しく撫で、東京で凝り固まっていた全身の緊張をすうっと吸い取っていくようだった。
「……不思議な場所ね。右を見ても海、左を見ても海なのに、なぜこんなに豊かな松林が育つのかしら」
志保の呟きに、隣を歩くくろまつが、和服ドレスの袂を押さえながら静かに微笑んだ。
黒髪に挿された松の葉のかんざしが、木漏れ日を浴びてキラリと光る。
「不思議どすやろ。……普通、植物いうのは、海水や潮風に弱おす。海の塩分を浴びれば、葉は枯れ、根は腐ってしまうのが道理どす。……でもね、志保さん。この天橋立の松たちは、何千年もの昔から、日本海の激しい冬の地吹雪と塩害に晒されながらも、一本たりとも枯れることなく、この砂浜に命を根付かせてきたんどす」
くろまつは、一本の太い古木の前で立ち止まった。
幹周りが二メートルを超える巨大な黒松。
その幹は、天に向かって真っ直ぐ伸びているのではない。
荒波と北風に何度も打ち据えられたのだろう、まるで龍が悶えるように激しくねじ曲がり、地を這うように屈曲しながら、それでも力強く天空へと枝を広げていた。
表皮は深い亀甲状にひび割れ、無数の傷跡が黒々とした樹皮の隆起となって刻まれている。
「見てごらんなさい、この幹の曲がり方を。……真っ直ぐに育つことだけが、木の美しさやありまへん。嵐を真っ向から受けて折れてしまうくらいなら、風の力に合わせて自らの体を曲げ、傷つき、歪みながらも、大地を強く抱きしめて生き抜く……。その過酷な年輪の重みこそが、この松を、どんな名木よりも気高く、美しく見せているんどす」
「傷つき、歪みながら……」
志保は思わず、その荒々しい樹皮にそっと手のひらを当てた。
ゴツゴツとした硬い感触の奥に、脈打つような大地の温もりが伝わってくる。
(私は……嵐から逃げることしかできなかった……)
仕事と家庭の両立という荒波。
プレッシャーと世間の評価という嵐。
それに耐えきれず、自分自身の心も、娘との絆も、ポキリと真っ二つに折ってしまった。
歪むことを恐れ、傷つくことを拒絶し、完璧な自分であろうとした結果が、あの家庭崩壊だったのではないか。
「志保さん、こちらへおいでやす。天橋立の、最大の奇跡をお見せいたしましょ」
くろまつに導かれ、松林のほぼ中央に位置する小さな祠の前へとやってきた。
そこには、石造りの古びた井戸があり、澄み切った水が満々と湛えられていた。
「これは……井戸?」
「そうどす。『磯清水』と呼ばれる名水どす」
くろまつは竹の柄杓を取り、井戸の底から水を汲み上げて、小さな青竹の猪口へと注いだ。
「どうぞ、一口含んでみておくれやす」
志保は訝しみながら猪口を受け取った。
右手の海までわずか十メートル、左手の海までも数十メートル。
周囲三百六十度を塩辛い海水に囲まれた砂浜のど真ん中だ。どう考えても塩水が混ざっているはずだった。
恐る恐る、唇を湿らせる。
――ッ!
「……えっ!? 甘い……!?」
志保は目を見開いた。
塩気など微塵もなかった。
舌の上に広がったのは、山の湧き水のようにキリリと冷たく、そして仄かな甘みを含んだ、信じられないほどピュアな「真水」だったのだ。
乾ききっていた喉を通って胃の奥へと落ちていくと、五臓六腑に染み渡るような清涼感が全身を駆け巡った。
「どないどす? 美味しいお水やろ」
くろまつは愛おしそうに井戸の水面を見つめた。
「海に囲まれ、砂に覆われ、一見すれば塩辛い絶望しかないようなこの場所でもね。地下深くを辿れば、阿蘇海の奥の山々から湧き出た清らかな伏流水が、砂の層で幾重にも濾過されて、こうして地上へとこんこんと湧き出ているんどす。……名水百選にも選ばれた、奇跡の真水どすえ」
くろまつは志保の顔を覗き込み、その松葉色の瞳で真っ直ぐに見つめた。
「人の心も同じどす。……どれほど悲しい涙で周囲が塩辛く覆い尽くされても、どれほど孤独の砂に埋もれてもね。あなたの魂の最も深いところには、誰にも汚すことのできない、清らかな愛の泉が必ず眠っているんどす」
「私の……愛の泉……?」
「そうどす。……娘さんを想うて流すその涙は、罪悪感やありまへん。心の底にある真水が、溢れ出している証拠どすえ」
サワサワサワ……。
頭上で松風が大きく鳴り響き、緑の松葉が陽光に輝いた。
志保の頬を、一筋の温かい涙が伝い落ち、白い砂の上へと吸い込まれていった。
それは、東京を出てから初めて流した、冷たくない涙だった。
「さあ、お次は与謝野の里へ参りましょ。……傷つくことでしか生まれない『本当の美しさ』を、その目で確かめていただくためにね」
くろまつの艶やかな声に促され、志保は小さく頷き、松林の小道を歩み出した。




