第149話:福知山駅の残照、漆黒のダイニングへ
丹波と丹後の国境に位置する京都府福知山駅。
初夏の西日が、高架化された近代的なプラットホームを斜めに射抜き、コンクリートの床を長い影が這い延びていく中、有村志保は、待合室のベンチの端で小さく身を縮めていた。
三十八歳。
かつては全国の書店や図書館の絵本コーナーに自作が平積みされ、子どもたちの無邪気な笑顔に囲まれていた人気絵本作家。
だが今、彼女の瞳には生気のかけらもなく、肩は冬枯れの枝のように痩せ細り、仕立ての良いくすんだリネンワンピースの裾を手持ち無沙汰に握りしめていた。
膝の上に置かれたトートバッグの奥には、二つの「呪い」が沈んでいる。
一つは、小学校に上がったばかりの一人娘・葵が、先月の最後の面会交流の日に泣きながら手渡してきた、クレヨンで描かれた一枚の絵。
破れかけたスケッチブックの切れ端に描かれていたのは、黒い雨が降る中で傘も差さずに泣いている母親の姿と、歪んだひらがなで書かれた『おかあさん、ごめんなさい』という文字だった。
もう一つは、使い慣れたドイツ製の高級水彩絵の具セットと、豚毛の絵筆たち。
だが、その絵の具箱の真鍮の留め金は、ここ半年間、一度たりとも外されていない。
「……ごめんなさい、は、私のセリフよ、葵……」
乾ききった唇から、誰にも届かない呟きが零れた。
絵本作家としての成功。増刷を重ねる代表作『森のスープとスプーンのおうち』。
連載、講演会、サイン会、メディア取材――押し寄せる仕事の波に呑まれ、志保はいつしか家庭を「仕事の邪魔をする雑音」としてしか見られなくなっていた。
温かい家族の食卓を描きながら、自分自身の食卓にはスーパーの冷たい惣菜が並び、締め切りの前には「静かにして! ママは今、お仕事中なの!」と、小さな娘を別室に追い払った。
夫との激しい口論、冷え切った寝室。そして半年前、泥沼の家庭裁判所の調停を経て、離婚が成立した。
『自分勝手なお前に、親としての愛情なんてあるのか? お前が描いているのは、読者を騙すためのペラペラのファンタジーだ。葵はお前と暮らしていても不幸になるだけだ』
元夫に吐き捨てられた言葉。
反論はできなかった。事実だったからだ。
親権を失い、一人きりになったマンションの仕事部屋で、志保は絵筆を握ろうとした。
だが、筆先が白い画用紙に触れようとした瞬間、右手が激しい痙攣を起こし、鉛のように重くなって動かなくなった。
心因性ジストニア――精神的なトラウマと罪悪感が引き起こした、身体の拒絶反応。
(自分自身の娘すら幸せにできなかった女が、子どもたちに『無償の愛』を描く資格なんて、どこにあるの……? 私が今まで描いてきたものは、全部、ただの金儲けのための嘘だったんだ……)
絵筆を折るために、志保は東京を出た。
向かったのは、かつて家族三人で「葵が小学生になったら、日本海の美味しいお魚を食べに行こうね」と約束しながら、志保の仕事のためにドタキャンして果たせなかった――海の京都、丹後地方だった。
ふと、志保の胸元のポケットの中で、カサリと硬質な音が響いた。
指先を滑り込ませると、そこにあったのは、見覚えのない一枚の切符だった。
薄い厚紙でできた昔ながらの硬券切符。
だが、そこには駅名も日付も印刷されていない。
ただ中央に、深い松葉色――ダークエメラルドの文字で、凛とした筆致が刻まれていた。
――『風の切符』
「……風の切符……? こんなもの、いつ買ったのかしら……」
不思議に思った瞬間、切符の表面が、まるで人の肌のようにじんわりと温かい熱を帯び始めた。
――フォォォォォン……。
ホームの奥、京都丹後鉄道の線路から、低く艶やかな警笛の音が響き渡った。
夕闇が迫るホームに、滑るように入線してきた一編成の気動車。
その姿を一目見た瞬間、志保は息を呑んだ。
――黒。
だが、ただの黒ではない。
幾重にも塗り重ねられた漆のように、周囲の残照と照明を艶やかに反射する、深いメタリックブラックの鏡面ボディ。
窓下には、一本の洗練されたゴールドのラインが走り、金色の松葉の紋章が神々しく輝いている。
水戸岡鋭治氏のデザインによって生まれ変わった、京都丹後鉄道が世界に誇る走る極上ダイニング――『丹後くろまつ号(KTR700形)』だった。
プシュー……と気密ドアが開き、ステップの上に、一人の女性が優雅に姿を現した。
漆黒の地に金色の松葉が散らされた、息を呑むほど艶やかな和風コンシェルジュドレス。
夜会巻きに結い上げられた美しい黒髪には、青々とした松の葉と真鍮、螺鈿の細工かんざしが挿されている。
瞳は、深く澄み切った松葉色。
手には、丹後の名産を記した和紙の手帳と、漆塗りの角盆を携えていた。
その女性――鉄娘・くろまつは、ホームに立ち尽くす志保に視線を留めると、しっとりと濡れたような美しい瞳を細め、深々と一礼した。
「おいでやす。……ようここまで、重いお荷物を背負うて辿り着きはりましたなぁ」
「え……? あ、あの、私……」
「有村志保さん。……その胸元の『風の切符』、しかと見届けましてございます」
くろまつはふわりと歩み寄り、志保の冷え切った指先を、温かい両手で包み込んだ。
その手のひらからは、上質な白檀の香りと、どこか懐かしい出汁の温もりが漂ってきた。
「お顔を見れば、すぐにわかりますえ。心のお腹を空かせて、誰もいない暗闇で、ずっと一人で泣きはらして来はったんやね」
「な、なぜ……私の名前を……? それに、私は観光に来たわけじゃ……」
「観光やなんて、誰も言うてしまへん。ここはね、人生の荒波に揉まれて、翼を休めたい旅人が辿り着く『走る止まり木』どす」
くろまつは優しく微笑み、漆黒の客室の扉を示した。
「急ぐ旅はおやめなさい。丹後の海と松の木が、あなたの流した涙を、すべて優しく吸い取ってくれますえ。……さあ、中へ。美味しいお茶とお料理が、あなたを待っておりますよって」
拒む力など、志保には残っていなかった。
くろまつの温かい手に導かれるようにして足を踏み入れたその車内は、駅のホームの殺風景な空気とは完全に別世界の、温もりと気品に満ちた空間だった。
床やテーブル、天井に至るまで、贅沢に使われた天然木の芳醇な木の香り。
組子細工の間接照明が琥珀色の柔らかな光を投げかけ、スピーカーからは静かにクラシックの弦楽四重奏が流れている。
厨房の奥からは、鰹節と昆布のふくよかな出汁の香りがふわりと立ち上り、志保の強張った胃袋を優しく解きほぐしていくようだった。
「さあ、こちらの席へどうぞ」
窓際の重厚な木製チェアに腰を下ろすと、列車は微かな振動とともに、静かに滑り出した。
由良川を渡り、天橋立、そして日本海へと向かう、海の京都の美食と再生の旅が、今、静かに幕を開けたのだった。




