第148話:ブロンズの軌跡、海の京都へ向かう黒き列車
山陰と山陽を結ぶ長き鉄路の旅が、終点を迎えた。
午後三時。新型特急『やくも』は、鳥取県米子駅の一番線ホームに静かに滑り込み、長い旅路のアンカーを下ろした。
デッキのドアが開き、初夏の爽やかな日本海の潮風がホームを吹き抜ける。
蒼太はやくもとともにホームへ降り立った。
足元にあったあの破れたナイロンリュックは、もうそこにはない。新見のゴミ箱に、自分の甘さと過去の悔恨とともに捨ててきたのだ。
今、蒼太の小脇には、完成したばかりのバックパックの図面が描かれたスケッチブックが、大切そうに抱えられていた。
「……着いたな、米子に」
「そうよ。陰陽連絡の全線走破、お疲れ様」
やくもはツインテールを風に揺らしながら、満足そうに腕を組んだ。
その時、蒼太の胸ポケットがカッと熱を帯びた。
「あ……っ!」
ポケットから取り出したあの硬券――『風の切符』。
厚紙の切符が、陽光を浴びたやくもブロンズのように、眩い黄金と赤銅の光を放ち始めた。
切符の表面に、見えない印鑑が押し当てられたかのように、ジジジ……と音を立てて朱色の紋様が浮かび上がってくる。
霊峰・大山の雄大な稜線と、高梁川の蛇行を鋭く切り裂いて傾斜する新型やくも(273系)の精悍なノーズ。
そして、その下部に刻まれた文字――。
――[伯備線・米子/下車前途無効・ブロンズの誇り 完了]
カチリと澄んだ音が鳴り、切符の光が静かに収まった。
硬券は、まるで使い込まれた革や帆布のように、しっとりと温かい感触を蒼太の掌に残していた。
「スタンプが、灯ったわね」
やくもが穏やかな眼差しでその切符を見つめた。
「あんたの心のレールは、もう真っ直ぐに敷き直されたわ。……これからどうするの?」
「決まってるよ」
蒼太は迷いのない瞳で、やくもを見つめ返した。
「倉敷へ帰る。美観地区の実家の工場に行って、親父に土下座するよ。……五年前に啖呵を切って逃げ出したこと、軽さに魂を売って世の中にゴミをばら撒いてしまったこと、全部謝る。そして頼み込むんだ。俺をもう一度、見習いとして工場のミシンを踏ませてくれって」
「お父さん、許してくれるかしらね? 頑固なんでしょ?」
「許してくれなくても、許してもらえるまで工場の前に座り込み続けるさ。……親父の一号帆布を背骨にしたこのバッグを、俺の人生を賭けて縫い上げるんだ。それを見せるまでは、絶対に諦めない」
やくもはフンと誇らしげに鼻を鳴らし、腰に手を当てて仁王立ちした。
「当たり前よ! 泣き言なんて言ったら、今度こそ私の振り子で吹き飛ばしてやるから覚悟なさい! ……次にこの伯備線に乗る時は、その新しいバッグを背負って乗ってきなさいよね。私のセミコンパートメントの一番いい席を空けて待っててあげるから!」
「ああ、約束するよ。ありがとう、やくも」
二人はしっかりと握手を交わした。
やくもの小さな手は、見た目の華奢さからは想像もつかないほど力強く、温かかった。
蒼太は上り列車へ向かうため、跨線橋へと歩き出した。
その背中は、倉敷駅で見せたあの折れ曲がった情けない姿とはまるで違っていた。
まるで、大山の岩山のように堂々と、前を向いて歩んでいた。
* * *
一人ホームに残ったやくもは、折り返しの点検を終え、ほっと一息をついていた。
ブロンズのスーツドレスの裾を整え、ホームの端から東の空を見つめる。
「……ふう。一件落着ね。サンライズ先輩、私、少しは役に立てたかしら……」
その時だった。
米子駅の奥、山陰本線をさらに東へ――鳥取、豊岡、そして京都の丹後地方へと続く線路の向こうから、凛とした、そして艶やかな気配が風に乗って漂ってきた。
潮騒の匂いと、どこか懐かしい松葉の香り、そして高級な檜の香気。
「あら……?」
やくもが目を凝らした。
留置線の奥に、見たこともないほど重厚で優美な一編成の列車が佇んでいた。
車体は、鏡のように磨き上げられた深い漆黒――『メタリックブラック』。
そこに、一本の洗練されたゴールドのラインが走り、金色の松葉のエンブレムが誇らしげに輝いている。
京都丹後鉄道が誇る、走る極上和風ダイニング――『丹後くろまつ号』。
そして、その漆黒の車輪の傍らに、一人の女性が佇んでいた。
黒漆の地に金の松葉が散らされた、息を呑むほど艶やかな和服ドレス。
黒髪を結い上げた襟足には、青々とした松の葉と真鍮のかんざし。
手には、丹後の地酒を満たした漆の盃。
その妖艶で気品に満ちた鉄娘――**くろまつ**は、遠くからやくもに視線を合わせると、盃を掲げて優雅に一礼してみせた。
その涼やかな唇が、微かに微笑んで動いた。
『――伯備線の駿足令嬢、見事なお仕事でしたわね。……次は、海の京都。天橋立の白砂青松が育む、食と美の極上の宴をお見せいたしましょう』
やくもは思わず目を見張り、そして不敵に笑った。
「ふん! 海の京都のくろまつね! 私のブロンズの風に負けないくらい、旅人を極楽へ酔わせてあげなさいよ!」
陽炎揺らめく初夏のホーム。
山陽から山陰へと駆け抜けたブロンズの軌跡は、次なる舞台――日本海の美と美食が待ち受ける「海の京都」へと、確かにバトンを繋いだのだった。
(第十四章 やくもと陽炎のブロンズ ――完)
(第十五章『くろまつと海の京都 〜天橋立の白砂青松、幻の間人蟹と丹後ちりめん〜』へつづく)




