第145話:蒜山高原の青嵐、ジャージー乳と味噌焼きそば
新見を出た列車は、いよいよ岡山県と鳥取県の県境――中国山地の最も険しい分水嶺へと挑んでいく。
谷が狭まり、両脇の杉林とブナの原生林が車窓すれすれまで迫る。
急勾配をものともせず、273系の最新型インバータが力強い唸りを響かせながら、グングンと標高を稼いでいく。
山越えの途中、やくもの案内で途中下車した蒼太が連れてこられたのは、大山の南東麓に広がる広大なカルスト台地――蒜山高原だった。
初夏の風が吹き抜ける緑の大地。
見渡す限りの青々とした牧草地では、赤茶色の毛並みを持つジャージー牛たちが、のんびりと草を食んでいる。
空は抜けるようなコバルトブルーで、遠くには独立峰・大山の雄大な山体が、青嵐の彼方に聳え立っていた。
「気持ちいい……! 風が、倉敷や東京とはまるで違うな」
「でしょ? 標高五百メートルの冷涼な気候が、この豊かな自然と強い命を育むのよ」
やくもが深呼吸をしながら、牧草地の脇に建つ山小屋風のドライブインへと蒼太を導いた。
テラス席の大きな鉄板からは、すでに香ばしい煙がモクモクと立ち上り、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが漂っていた。
「さあ、蒜山に来たらこれを食べなきゃ始まらないわ! 名物『ひるぜん焼きそば』よ!」
店主が熱々の大きな鉄板の上に、ラードを引く。
――ジュワァァァッ!
立ち上る煙とともに投入されたのは、たっぷりのざく切りキャベツと、薄切りではなくゴロゴロとした一口大の鶏肉だった。
「あれ? 焼きそばなのに豚肉じゃないのか?」
「ふふん、素人ね! ひるぜん焼きそばの最大の特徴は、豚肉じゃなくて『親鶏の肉』を使うことなのよ!」
やくもが講釈を垂れる。
若鶏ではなく、卵を産み終えるまでじっくりと育てられた親鶏。
身は引き締まり、肉質は硬いが、噛めば噛むほど濃厚な鶏の旨味と脂が染み出してくる、まさに大人のための肉だ。
鉄板の上で親鶏の皮から黄色い上質な脂が滲み出し、高原キャベツがその脂を吸って透き通るような緑色へと変わっていく。
そこへ、茹で上げられた極太の中華麺がドサリと合流した。
そして――真打ちの登場だった。
店主が柄杓で豪快に回しかけたのは、一般的なウスターソースではない。
地元で代々受け継がれてきた、味噌をベースにニンニク、玉ねぎ、リンゴ、生姜、唐辛子を練り込んだ『特製濃厚味噌ダレ』だった!
――バチバチバチッ! ジュワァァァァァッ!!
鉄板の上が一瞬にして白煙に包まれ、焦げた味噌とニンニクの猛烈に香ばしい匂いが爆発した。
店主が二本のコテを激しく操り、麺とキャベツ、親鶏に味噌ダレを完璧に絡め取っていく。
味噌ダレが鉄板で焦げて香ばしいお焦げを作り、極太麺の表面を艶やかな茶褐色に染め上げる。
「へいお待ち! 熱いうちに食ってくれ!」
鉄板からそのまま皿に移された、湯気立ち上るひるぜん焼きそば。
蒼太は割り箸を割り、我慢できずに極太麺を啜り上げた。
――ズズッ、ズズズッ!
「……ッッ!! んんんまいっ!!」
口いっぱいに広がる、濃厚でコク深い味噌の甘辛さと、ガツンと効いたニンニクのパンチ!
一般的なソース焼きそばの酸味とは全く違う、どこか懐かしく、そして底なしに力強い旨味の塊だ。
極太の麺はモチモチとした強いコシがあり、濃厚な味噌ダレに一歩も負けていない。
そして、ゴロリとした親鶏を噛み締めた瞬間、蒼太は目を瞠った。
――ガシッ、ジュワッ!
「すごい歯ごたえだ……! 若鶏みたいにフワフワしてない。噛めば噛むほど、肉の繊維から濃い鶏の出汁が溢れてくる!」
「そうでしょ!」
やくもも器用に箸を動かし、ハフハフと息を吹きながら焼きそばを頬張る。
「柔らかいだけの肉なんて、どこでも食べられるわ。この親鶏の強い筋肉と、高原の寒暖差で甘みを極限まで蓄えたキャベツのシャキシャキ感! そのすべてを、鉄板で焦がした味噌ダレが一つに束ねているのよ!」
一味唐辛子をパラリと振ると、ピリッとした辛みが味噌のコクをさらに引き立て、箸が止まらなくなる。
あっという間に大盛りの焼きそばを平らげた蒼太は、額の汗を拭いながら満足のため息を漏らした。
「ふう……美味かった。体の底からエネルギーが湧いてくるようだ」
「まだまだよ! デザートは別腹でしょ!」
やくもが立ち上がり、売店から二つのコーンアイスを掲げて戻ってきた。
ほんのり淡い黄金色を帯びた、見るからに濃密なソフトクリーム。
「蒜山といえば、これよ! 『蒜山ジャージー乳のプレミアムソフトクリーム』!」
蒼太は差し出されたソフトクリームを受け取り、舌先でひと舐めした。
――ッ!
「……な、なんだこれ……!? これ、本当に牛乳か!?」
驚愕のあまり、声が裏返った。
口に含んだ瞬間、まるで上質な練乳か生キャラメルをそのまま滑らかに凍らせたかのような、圧倒的な乳脂肪分のコクが広がったのだ。
通常のホルスタイン種の牛乳の乳脂肪分が約3.7%程度であるのに対し、このジャージー牛のミルクは5%を遥かに超え、「ゴールデンミルク」と称されるほどの濃密さを誇る。
舌の上にねっとりと絡みつくような重厚な甘み。
しかし、これほど濃厚でありながら、後味は驚くほど爽やかで、冷たい高原の風のようにスッと喉へ引いていく。
「美味しいでしょ」
やくもはソフトクリームを幸せそうに舐めながら、高原の青空を見上げた。
「イギリスのジャージー島からやってきた牛たちが、この過酷な寒冷地の蒜山で、豊かな牧草と清らかな水をたっぷり飲んで生きてきたからこそ、この黄金のミルクが生まれるの。……誤魔化しのない、命の重みそのものよ」
命の重み。
焼きそばの親鶏の力強い歯ごたえ。
ジャージー牛の濃厚な黄金のミルク。
どれも「安易な柔らかさ」や「薄っぺらな手軽さ」とは対極にある、本物の土台から生まれた味だった。
「やくも。俺、少しずつ見えてきた気がするんだ」
蒼太はソフトクリームを握りしめ、遠くの大山を見つめた。
「世の中がいくら『軽くて安いもの』を求めても、それだけじゃ人間は満たされない。本当に心を満たし、長い人生を支えてくれるのは、この蒜山の大地のように、しっかりと根を張った重厚な本物なんだってことが」
「……ふふん、少しは物事がわかるようになってきたじゃない」
やくもはツインテールを揺らし、誇らしげに微笑んだ。
「さあ、高原の風を吸い込んだら、列車へ戻るわよ。……次は、山陰の境目。高梁川の最後の恵みを受け取りにいくわ!」




