第146話:高梁川の鮎寿司、急流に耐えた骨のしなやかさ
蒜山高原を後にした蒼太とやくもは、再び273系特急『やくも』の車内へと戻っていた。
列車は岡山県から鳥取県へと抜ける長大トンネルを抜け、車窓の風景は穏やかな高原から、日本海側の深い谷あいの景色へと移り変わっていた。
客室の座席テーブルに、やくもが駅の売店で仕入れてきた竹皮包みの小箱をコトリと置いた。
「さあ、お昼の締めくくりよ。高梁川水系の最上流で獲れた天然鮎を使った、伝統の『鮎寿司』よ」
「鮎寿司……。鮎といえば塩焼きのイメージが強いが、寿司にするのか」
「そうよ。この地域の山あいで、冷蔵技術のない時代から大切に受け継がれてきた保存食であり、晴れの日のご馳走なの」
蒼太が竹皮の紐を解くと、中から青笹の葉に包まれた、美しい姿寿司が現れた。
背開きにされた一尾の鮎。
酢と塩で絶妙に締められた銀色の魚体は、初夏の陽光を反射して青白く妖艶に輝いている。
その腹の中には、細かく刻んだ大葉と生姜を混ぜ込んだ酢飯が、職人の手によってぎっしりと隙間なく詰め込まれていた。
「頭から骨ごと、丸ごと齧り付いてごらんなさい」
やくもに勧められ、蒼太は竹皮から鮎を一匹、指先でつまみ上げた。
酢の爽やかな立ち香の中に、鮎特有の「スイカの香り」とも称される清冽な川の苔の匂いが微かに漂う。
意を決して、頭のすぐ後ろから豪快に噛み付いた。
――サクッ、ムニュッ。
「……あっ!」
蒼太は目を見張った。
口に入れる前は、硬い中骨が歯に当たるのではないかと身構えていた。
だが、歯は一切の抵抗を受けることなく、まるで上質な軟骨のようにスッと骨を断ち切ったのだ。
丁寧に時間をかけて酢で締められた鮎の中骨は、驚くほど柔らかく、噛み締めるごとに心地よいコリコリとした小気味よい食感へと変わっていく。
そして何より驚いたのは、皮と身の弾力だった。
急流を泳ぎ抜いた天然鮎の身は、キュッと引き締まり、噛むほどに凝縮された白身の甘みと旨味が染み出してくる。
そこに、酢でまろやかになった魚脂と、大葉の爽快な清涼感、ピリッとした生姜の辛みを含んだ酢飯が完璧に調和する。
内臓のほろ苦さが、後味に大人の上品な余韻を残していた。
「……美味い……! 骨がこんなに柔らかいのに、身と皮にはしっかりとした強い弾力がある。塩焼きのフワッとした食感とは全然違う、強烈な生命力を感じる味だ」
「そうでしょ」
やくもは窓の外を流れる日野川の清流を見つめながら、静かに語りかけた。
「高梁川や日野川のような急流に生きる天然の鮎はね、ただ硬い骨を持っているだけじゃ生きていけないの」
「ただ硬いだけじゃ……?」
「そう。もし鮎の骨が鉄のように硬くて曲がらなかったら、どうなると思う? 岩に激しく叩きつけられた瞬間、ポキリと真っ二つに折れて命を落としてしまうわ。……激流に押し流されないためには、水圧に耐える強い筋肉が必要。でも同時に、激流の渦の力に合わせて、しなやかに骨を曲げて受け流す『柔軟さ』がなければ、急流の川底で生き残ることはできないのよ」
「急流に合わせて、しなやかに受け流す……」
蒼太は手の中の鮎寿司を見つめた。
「硬いだけでも駄目。柔らかいだけでも駄目。……相反する二つの力を、一つの体の中で共存させること……」
「そうよ!」
やくもは手にしたタブレットの画面をトントンと叩いた。
「私の『車上型制御付自然振子』だって同じよ! ただガチガチに硬いサスペンションで車体を固めたら、カーブの遠心力に耐えきれずにレールから脱線してしまう。逆に、フニャフニャに柔らかくしたら、車体が揺れまくって乗客が酔ってしまう。……強靭な台枠という『硬い骨格』を持ちながら、カーブの瞬間にミリ秒単位でしなやかに傾斜する『柔軟な制御』があるからこそ、私たちは時速百二十キロでこの山岳路線を駆け抜けられるの!」
ドクン……!
蒼太の頭の中で、すべての点と点が一本の線で繋がった。
(硬い骨格と、しなやかな柔軟性……!)
父・源造が織る一号帆布。
あの布は、絶対に破れない、世界最強の硬さと密度を持っている。
しかし、硬すぎるがゆえに、人の体には馴染みにくく、ミシンも通らない。
一方で、自分が東京で企画した軽量ナイロンバッグ。
柔らかくて軽いが、骨格がないがゆえに、負荷がかかった瞬間に千切れて崩壊した。
(二者択一じゃなかったんだ……!)
親父の帆布を捨てる必要なんて、最初からどこにもなかったのだ。
擦れやすく負荷のかかる底部や背面のフレーム、ストラップの付け根には、親父の織る最強の「一号帆布」を骨格として配置する。
そして、身体に直接当たる部分や開口部、ポケットの可動部には、人間工学に基づいたしなやかな薄手の帆布や、藍染めの柔らかい綾織り、そして最新の軽量パーツを組み合わせる。
硬い骨格が、重い荷物と衝撃から中身を守る。
しなやかな布が、持つ人の身体の動きに合わせて優しく寄り添う。
「できる……! 俺なら、作れる……!」
蒼太は立ち上がりかけた。
胸の奥から湧き上がる衝動を、もはや抑えきれなかった。
「やくも! 俺に紙とペンを貸してくれ! 今すぐ、描かなきゃいけないんだ!」
「ふふっ、言われなくても準備してあるわよ!」
やくもはカバンから、一冊のスケッチブックと一本の製図ペンを差し出した。
「行きなさい、蒼太! 大山の懐で、あんたの新しい魂をその紙の上に叩きつけなさい!」




