第144話:一号帆布の重み、三十年破れぬカメラバッグ
夜が明け、新見の山あいに柔らかな朝の光が差し込み始めた。
駅前の古い商店街をやくもに連れられて歩いていた蒼太は、木造二階建てのレトロな写真館の前で立ち止まった。
『新見光陽堂写真館』。
ガラスのショーウィンドウには、昭和初期のセピア色の家族写真や、古い一眼レフカメラが飾られている。
「ここよ、蒼太。中へ入りなさい」
やくもに促され、引き戸を開けると、チリンチリンと真鍮のドアベルが鳴った。
「はいはい、どなたかね……おお、やくものお嬢さんじゃないか! 新型のブロンズになってから、ますます男前……いや、べっぴんになったねえ」
奥から出てきたのは、白い髭を蓄えた小柄な老人だった。
首から年季の入ったレンジファインダーカメラを下げ、丸眼鏡の奥の目を細めて微笑んでいる。
「光陽堂のじいちゃん、おはよう! 今日はお客さんを連れてきたの。……あのカバン、まだここにある?」
「ああ、あるともさ。今朝ちょうど、持ち主から『オーバーホールのついでに、金具の緩みを見てやってくれ』って届いたばかりだよ」
老主人はカウンターの奥から、ずっしりとした重みを感じさせる一つのバッグを抱え出してきた。
――ドサリ。
木製のカウンターに置かれた瞬間、鈍く重い音が響いた。
そのバッグを一目見た瞬間、蒼太の心臓が跳ね上がった。
「……あっ!?」
全身の血が逆流するような衝撃が、蒼太の脳天を貫いた。
呼吸が止まり、足がその場に縫い付けられたように動かなくなる。
そこに置かれていたのは、無骨極まりない大型のカメラショルダーバッグだった。
色は、かつてオリーブドラブ色だったと思われるが、無数の雨風と太陽の紫外線に晒され、白茶けた深いヴィンテージの色合いへと変化している。
角という角は擦り切れ、表面には無数の引っかき傷やオイルの染み、泥の飛沫の痕跡が刻み込まれていた。
真鍮のリベットは黒く酸化し、ショルダーストラップの付け根には、不格好なほど太い麻糸で、何重にも何重にも手縫いされた補強のステッチが入っている。
「こ、これ……! 嘘だろ……なんでこれがここに……!?」
蒼太は震える手を伸ばし、バッグのフラップの裏側をめくった。
内ポケットの隅。
そこには、下手くそな焼き印で、小さくアルファベットが刻まれていた。
――『S. MIZUKI #001』
「……俺が、作ったやつだ……」
蒼太の声が震えていた。
十年前。蒼太が高校三年生の夏のことだ。
当時から「将来は世界的なデザイナーになってやる」と息巻いていた蒼太は、親父に「お前の帆布なんて誰でも縫える」と啖呵を切り、工場のゴミ捨て場から一号帆布の端材を盗み出した。
そして、父の目を盗んで深夜の工場に忍び込み、革細工用の太い菱目打ちで穴を開け、指から血を流しながら一週間徹夜して縫い上げた――蒼太の人生でたった一つの、『試作第一号のカメラバッグ』だった。
完成したものの、重さは三キロ近くあり、革のベルトは分厚すぎて肩に食い込み、親父には「こんなガラクタ、金をもらったって誰も使わん」と鼻で笑われた。
悔しさと恥ずかしさで耐えられなくなった蒼太は、当時、新見の親戚の家へ遊びに来た際、この写真館の軒先に「ご自由にお持ちください」と投げ捨てて逃げ帰ったのだ。
「……じいちゃん、これ……一体誰が使っているんだ……!?」
蒼太が問うと、写真館の老主人は眼鏡を押し上げ、誇らしげに目を細めた。
「誰って、東京の有名な報道写真家――滝沢宗助さんだよ」
「た、滝沢宗助……!?」
蒼太は耳を疑った。
滝沢宗助といえば、世界中の紛争地帯や被災地、極北の氷原などを単身で駆け巡り、数々の国際的な報道写真賞を受賞してきた、まさに日本写真界の生ける伝説だ。
「十年ほど前、滝沢さんが中国山地の過酷な冬を取材するために新見を訪れた時、偶然この店先に置かれていたこのバッグを見つけたんだ。『おい店主、このバッグはどうしたんだ?』って聞くから、地元の高校生が置いていった試作品だと答えたらね。滝沢さんは目を輝かせて、こう言ったんだよ」
老主人は、遠い日を懐かしむように語り始めた。
『――この帆布の目を見ろ。こんなに高密度で狂いのない極厚の布、世界中どこを探したって織れるもんじゃねえ。縫製は荒削りで素人仕事だが、布の強さと、絶対に壊れないカバンを作ろうとした作り手の執念が宿っている。俺の命と何百万の機材を預ける相棒は、こういう泥臭い本物でなきゃならん』
老主人はバッグの底を優しく撫でた。
「それ以来、滝沢さんはこのバッグを肌身離さず持ち歩いているよ。中東の砂嵐にも、ヒマラヤの氷点下三十度のブリザードにも、南米の泥沼にも連れて行ったそうだ。最新のハイテクナイロンバッグが破れ、ファスナーが凍りついて壊れていく中で、この一号帆布のバッグだけは、一度たりとも破れず、中のカメラとフィルムを完全に守り抜いたそうだ」
「世界中の……過酷な現場で……俺のバッグが……?」
「ああ。滝沢さんは今でも岡山に来るたびに寄ってくれてね。『俺が死ぬまで、このバッグの代わりは世界中どこにもない』って、いつも笑って話してくれるよ。……もっとも、滝沢さんももう歳だから、最近は少し現場を退いて、後進の育成や日本の原風景を巡る旅を考えているらしいがね」
老主人の言葉が、蒼太の耳の奥で反響した。
自分が「重くて使い物にならないゴミ」だと決めつけて捨てたバッグ。
だが、そのバッグを形作っていたのは、親父が人生のすべてを賭けて織り上げた『一号帆布』だった。
その極限の厚みと密度があったからこそ、世界最高峰のカメラマンの命を、十年もの間、地球の果ての最前線で守り続けることができたのだ。
「……う……うわあぁぁぁ……っ!」
蒼太はカウンターのバッグを抱きしめ、子供のように声を上げて泣き崩れた。
オリーブドラブの帆布から、微かに香る泥と埃、そして親父の工場の懐かしい油の匂い。
(親父……! 親父の作った布は、化石なんかじゃなかった……! 世界の最前線で、命を守る盾になっていたんだ……!)
自分の浅はかさが、情けなさが、胸を掻き毟るように痛かった。
だが同時に、絶望の底に沈んでいた蒼太の魂の奥底で、途方もなく熱い炎が燃え上がり始めていた。
やくもがそっと蒼太の肩に手を置いた。
そのブロンズゴールドの瞳には、慈愛と、そして確信に満ちた輝きが宿っていた。
「泣いている暇はないわよ、蒼太。……あんたの親父さんが遺してきたものの偉大さは、もう十分にわかったはずよ」
「やくも……」
「なら、次はあんたの番よ。親父さんのその偉大な骨格を受け継いで、あんたが現代に何を生み出すのか。……それを証明しにいくわよ!」
蒼太は涙を袖で力強く拭い、しっかりと頷いた。
「ああ……! 俺に、見せてくれ。この伯備線が、中国山地が育んできた、すべての本物を!」




