第143話:深夜の新見駅、サンライズの先輩と交わす言葉
深夜二時。
中国山地の冷気に包まれた新見駅は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街の灯りはすべて消え、駅構内を照らすナトリウムランプのオレンジ色の光だけが、夜露に濡れた二条のレールを仄かに浮かび上がらせている。
吐く息がうっすらと白くなる中、蒼太とやくもは人気の途絶えた一番線ホームのベンチに座っていた。
「……やくも、こんな時間に誰が来るんだ? もう伯備線の定期列車は全部終わったはずじゃ……」
「しっ。静かに耳を澄ませて」
やくもが人差し指を唇に当てた。
遠く、南へと続く山あいの闇の向こうから、重厚で滑らかな走行音が微かに響いてきた。
カタン、コトン……カタン、コトン……。
それは昼間の通勤電車のような軽薄なリズムではない。何百人もの乗客の眠りと夢を乗せて夜を切り裂く、長距離ランナーだけが持つ深みのある響き。
闇を裂いて、二筋の眩い前照灯がホームへと差し込んできた。
現れたのは、ベージュと茜色のツートンカラーに塗り分けられた、堂々たる巨躯のダブルデッカー電車。
山陰と首都・東京を夜を徹して結ぶ、日本唯一の定期寝台特急――『サンライズ出雲(285系)』だった。
キシィィ……と微かなブレーキ音を残して、十四両編成の長い車体がホームに滑り込む。
二階建ての車窓のカーテンの隙間からは、温かみのある電球色の間接照明が漏れ、木目調の個室の中で静かに眠る旅人たちの気配が伝わってくる。
プシュー……。
静かにデッキのドアが開き、ステップの上に一人の女性が降り立った。
夜明けの朝焼けを思わせる茜色のロングドレス。
気品に満ちた佇まいと、すべてを包み込むような慈愛に満ちた深い琥珀色の瞳。
寝台特急『サンライズ』の鉄娘だった。
「サンライズ先輩……!」
先ほどまで勝ち気に振る舞っていたやくもが、まるで母親の姿を見つけた幼子のように、駆け寄っていった。
「あら、やくも。こんな時間に新見で待っていてくれたのね」
サンライズは穏やかな笑みを浮かべ、駆け寄ってきたやくもを優しく迎え入れた。
その声は、深夜の駅の冷気をふわりと温めるような、甘やかで落ち着いた響きを持っていた。
「はい……! 先輩が伯備線を上ってこられると聞いて、どうしてもお顔が見たくて……」
「ふふ、元気そうね。デビューしたばかりの新型ブロンズのスーツドレス、とてもよく似合っているわ。倉敷でも岡山でも、あなたの評判は私のところまで届いているわよ。『やくもが格段に静かになった』『山越えがまるで夢のように滑らかだ』って」
「……本当ですか?」
やくもは俯き、自分のヒールブーツの先を見つめた。
その声は微かに震えていた。
「私……怖かったんです、先輩。ずっと、怖くてたまらなかった……」
蒼太は目を見張った。
あの傲慢なほどに勝気で、自分を睨みつけていたやくもが、肩を小さく窄めて震えていたのだ。
「半世紀もの間、381系の先輩たちが雨の日も雪の日も、あの険しい高梁川の蛇行を命がけで駆け抜けて、陰陽連絡の絆を守り続けてきました。……その歴史を、私が引き継ぐことになった時、押しつぶされそうでした。もし私の新しい振り子が失敗したら? もし私が伯備線の誇りを汚してしまったら? ……そう思うと、毎晩、モーターの唸りが止まらなくて……」
やくものブロンズゴールドの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
どれほどの重圧を、この小さな背中に背負っていたのか。
倉敷駅で見せたあの勝気な態度は、先代たちへの敬意と、決して失敗できないというプレッシャーを必死に覆い隠すための、精一杯の強がりだったのだ。
サンライズは何も言わず、両腕を広げてやくもを抱きしめた。
茜色のドレスがふわりと広がり、やくもの震える体を包み込む。
「よく頑張ったわね、やくも。……大丈夫。あなたのブロンズの光は、とても美しく、力強く輝いているわ」
「でも、先輩……私は、先輩たちのように完璧には……」
「完璧である必要なんてないのよ」
サンライズはやくもの涙をそっと指先で拭い、優しく微笑みかけた。
「伝統を守るということはね、やくも。過去の姿のまま、氷のように固まって動かないことじゃないのよ」
「え……?」
「時代は流れ、線路を行き交う人々の暮らしも心も変わっていく。その変化から目を逸らさず、新しい技術という風を吹き込み、自ら傷つき、迷いながらも、前へ前へと車輪を回し続けること……。それこそが、本当の『伝統の継承』なのよ」
サンライズの言葉が、深夜のホームに染み渡っていく。
「過去にしがみつくのは、伝統への敬意ではなく、ただの怠慢よ。あなたが悩み抜いて生み出した『車上型制御付自然振子』は、先代たちの血と汗の歴史があったからこそ生まれた、最高峰の革新じゃない。自信を持ちなさい。あなたの走りは、伯備線の新しい夜明けそのものよ」
「サンライズ先輩……っ」
やくもはサンライズの胸に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
ベンチに座っていた蒼太は、拳を痛いほどに握りしめていた。
胸の奥が、熱い鉄を流し込まれたように激しく脈打っていた。
(伝統を守るということは、過去のまま固まることじゃない……。新しい風を吹き込み、迷いながらも前へ進むこと……)
親父と自分の姿が、痛烈にフラッシュバックした。
親父は、明治から続く一号帆布の頑固な技術を守り続けていた。
自分は、それに反発して東京へ逃げ、中身のない軽薄な軽さへと走った。
だが、どちらも「片手落ち」だったのだ。
過去の技術をただ守るだけでも駄目だ。
かといって、過去の魂を捨てて軽さだけに走るのも論外だ。
親父が命がけで守ってきた「極厚の一号帆布という最強の骨格」に、現代の自分が学んできた「しなやかなデザインと機能性」という新しい風を吹き込むこと――それこそが、自分がやるべき本当のものづくりだったのではないか。
プァァァァァン……。
サンライズの澄んだタイフォンが鳴り響いた。
出発の合図だった。
「さあ、私は東京へ向かわなくちゃ。……やくも、そしてそこの旅人さん」
サンライズがステップに足をかけ、蒼太の方を振り返った。
「あなたの胸の奥にある火種を、どうか消さないで。夜が明ければ、必ず新しい光が大地を照らしますから」
ドアが閉まり、十四両の茜色の巨躯が、静かに滑り出していった。
暗闇の中へ遠ざかっていく二筋の赤い尾灯。
やくもは涙を拭い、鼻をすすりながら、カツンとヒールを鳴らして振り返った。
その顔には、先ほどまでの迷いは微塵もなかった。
一段と研ぎ澄まされた、ブロンズゴールドの誇り高き光が宿っていた。
「……見られたわね、情けないところ」
「いや……格好よかったよ、やくも」
蒼太は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「お前は、本当に伯備線の誇りだ」
「ふ、ふん! 当たり前でしょ! ……さあ、夜が明けるわ。新見の町で、あんたに見せなきゃいけない『もう一つの奇跡』があるのよ!」




