第142話:熱々の鉄鍋、幻の千屋牛と割り下の香り
備中高梁からさらに伯備線を北上し、高梁川の最上流部に位置する交通の要衝・新見駅へ降り立ったのは、黄昏時が近づく頃だった。
駅前の古い町並みの一角、黒塗りの板塀に暖簾を掲げた老舗割烹の引き戸をくぐると、ふわりと香ばしい醤油と甘い出汁の匂いが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃいませ。やくも様、お連れ様。お席をご用意しております」
女将に案内された小上がりの座敷。
塗り畳の中央に据えられた卓の上には、重厚な黒光りを放つ南部鉄のすき焼き鍋と、ガスコンロが鎮座していた。
そして、その脇に置かれた塗りの大皿を見て、蒼太は目を丸くした。
「な……なんだ、この肉は……!?」
大皿の上に美しく牡丹の花のように盛り付けられた、見事な牛肉。
鮮やかな真紅の赤身の中に、まるで細密なレース編みのように純白の脂――サシが、均一に、そして極めて繊細に入り込んでいる。
室内のわずかな体温と室温だけで、脂の表面がうっすらと透明に溶け出し、艶やかな光を放っていた。
「ふふん、驚いた? これが新見が誇る幻の黒毛和牛――『千屋牛』よ!」
やくもが誇らしげに胸を張り、卓の正面に腰を下ろした。
「千屋牛……? すまない、聞いたことがない。岡山の肉といえば、蒜山や美作のイメージがあったが……」
「無理もないわね。全国的な知名度では、松阪牛や神戸牛、近江牛の方がずっと有名だから。……でもね、蒼太。その松阪牛や近江牛のルーツを辿ると、どこの牛に行き着くと思う?」
「ルーツ……?」
「ここ、新見の千屋よ!」
やくもは身を乗り出し、熱っぽく語り始めた。
「江戸時代末期、新見の豪農が選び抜いた優秀な雌牛をもとに、日本最古の系統牛(蔓牛・つるうし)として確立されたのが『竹の谷蔓』。その直系の子孫こそが、この千屋牛なの。全国のブランド黒毛和牛の血統図を遡れば、必ずこの新見の蔓牛の血に辿り着く……いわば、日本のすべてのブランド和牛の『母なる祖先』よ!」
女将が静かにコンロに火を点けた。
重厚な鉄鍋が熱せられ、青白い熱気が立ち上り始める。
「では、お焼きいたしますね」
女将がトングで真っ白な牛脂を取り、熱せられた鉄鍋の底を滑らせる。
――ジュウウウウゥッ!
小気味よい激しい音とともに、澄んだ牛脂の甘い芳香がパッと部屋中に広がった。
酸化した嫌な油臭さは微塵もない。まるで澄ましバターのようにピュアで、食欲中枢を直接揺さぶる至高の香り。
そこへ、大判に切り分けられた千屋牛の特選ロース肉が一枚、豪快に鍋へと投入された。
――ジューーーーーッッ!
赤身の縁が瞬く間に縮み、純白のサシが透明な脂となって鉄肌を潤す。
すかさず女将が、平釜仕込みの新見産生醤油、甜菜糖、そして地元の銘酒で仕立てた秘伝の割り下を、円を描くように肉の上へと回しかけた。
――ジュワワワワワァァァッッ!!
激しい湯気と泡が立ち上り、焦がし醤油の香ばしさと、牛肉の濃厚なアミノ酸の香りが爆発的に立ち込める。
甘辛い湯気が蒼太の顔を直撃し、口の中に猛烈な勢いで唾液が溢れ出してきた。
女将が手際よく肉を裏返し、表面にツヤツヤとした飴色の照りが乗ったところで、トングで持ち上げた。
「さあ、まずはこの一枚を。新見の平飼い有精卵を軽く溶いて、熱いうちにどうぞ」
「い、いただきます……!」
蒼太は箸を震わせながら、黄金色に輝く溶き卵の器に肉をくぐらせた。
大判のロース肉は、箸で持ち上げるだけで自らの重みでちぎれそうなほど柔らかい。
ふうふうと息を吹きかけ、一気に口の中へと放り込む。
――ッッッ!?
噛む必要などなかった。
舌の上に触れた瞬間、肉の繊維がほどけるように溶け出し、信じられないほど上質な脂の甘みが口いっぱいに広がった。
だが、驚くべきはその後だった。
一般的なサシの多い牛肉なら、一口目で「甘い」と感じた後、強い脂っこさが舌に残る。
しかし、この千屋牛は違った。
脂がサラリと溶けて喉の奥へと滑り落ちた後、舌の上に残ったのは、濃厚で力強い「赤身そのものの野生の旨味」だったのだ。
「……っっ! う、美味い……ッ! なんだこれ、脂が全然もたれない! すっと溶けて消えたあとに、肉の旨味が信じられないくらい押し寄せてくる!」
「ふふっ、そうでしょ!」
やくもも自分の器の肉を口に運び、幸せそうに頬を緩めた。
「千屋牛の脂には、融点の低いオレイン酸が極めて豊富に含まれているの。だから人間の体温で完全に液化して、口の中に嫌な後味が残らない。そして何より、中国山地の厳しい寒暖差と澄んだ水で育った牛だから、赤身の筋肉の密度が違うのよ!」
鍋の中では、肉の旨味をたっぷりと吸い込んだ地元名産の白ネギが、ジュクジュクと音を立てて煮込まれていた。
肉厚の新見原木椎茸、結び糸こんにゃく、焼き豆腐。
割り下を吸って飴色に染まった白ネギを口に入れると、外側はトロリと甘く、芯のシャキシャキとした瑞々しさが、濃厚な割り下と完璧なマリアージュを奏でる。
「蒼太、お酒も少し呑みなさいな」
やくもが徳利から、地元の銘酒『大正の鶴』の熱燗を平盃へと注いでくれた。
琥珀色を帯びた純米酒。
立ち上る米の力強い麹の香りを吸い込み、盃を傾ける。
――クッと喉を鳴らす。
辛口で骨太な酸味が、すき焼きの濃厚な甘辛さを綺麗に洗い流し、舌の味蕾を再び研ぎ澄ましていく。
そこへ、二枚目の千屋牛。
今度はご飯の上にワンバウンドさせ、タレの染みた白米とともに掻き込む。
「……ああ、生きてる……」
蒼太の目から、不意に一筋の涙がこぼれ落ちた。
東京にいた頃、何を食べていたのかすら思い出せない。
オフィスでパソコンの画面を見ながら、冷たいコンビニのおにぎりを胃に流し込み、徹夜のたびにエナジードリンクで体を騙し続けていた。
食べ物の味も、季節の移ろいも、何も感じないまま、ただ数字と流行の波に流されていた。
「美味しいものを美味しいと感じて、温かいものを温かいと感じる……。それが人間の生きる基本よ」
やくもが静かに盃を置き、蒼太を見つめた。
「千屋牛がなぜ何百年も最高峰の血統を守り続けてこられたか、わかる? 流行に迎合して、安易に早く大きくなる外来種と交配させたりしなかったからよ。新見の山奥で、頑固なまでに原種の血を守り抜いた。その『揺るぎない芯』があったからこそ、現代のどんなブランド牛にも負けない深みが生まれたの」
揺るぎない芯。
千屋牛の血脈が、倉敷のシャトル織機で織られる一号帆布と、蒼太の頭の中で重なり合っていた。
「ごちそうさまでした……本当に、美味かった」
蒼太が深く頭を下げると、やくもは満足そうに微笑み、窓の外の夜空を見上げた。
「さあ、お腹がいっぱいになったら、次は夜の駅へ行くわよ。……今夜の新見駅には、私の大好きな『あの方』がやってくるんだから!」




