第141話:備中高梁の雲海、山城を包む朝霧の静けさ
備中高梁駅で特急を降りた蒼太は、やくもに連れられ、駅前から手配された山道を進む車に揺られていた。
標高四百三十メートル。臥牛山の頂近くにある展望台へ続く細いワインディングロードを登り切ると、外の空気は驚くほどひんやりと冷たく澄み渡っていた。
「ここよ。降りてごらんなさい」
やくもに促され、蒼太は展望デッキの手すりに近づいた。
そして、思わず息を呑んだ。
「……っ! これは……」
眼下には、見渡す限りの純白の海が広がっていた。
高梁川から立ち上る深い朝霧が盆地を完全に埋め尽くし、波打つようにうねっている。
遠くの山々の頂だけが島のようにぽっかりと浮かび上がり、その雲の海のただ中――対岸の険しい岩山の頂に、凛としてそびえ立つ小さな城郭の姿があった。
天守の白壁と、黒い瓦屋根。
切り立った巨岩の石垣の上に、まるで天の浮き船のように静かに浮かんでいる。
「――備中松山城よ」
やくもが手すりに手をかけ、ブロンズゴールドの瞳を細めてその山城を見つめた。
朝の冷たい風が、彼女の快活な栗色のツインテールをふわりと持ち上げる。
「天守が現存する山城としては、日本で最も標高の高い場所にある城。戦国時代から幾多の戦火や風雪を耐え抜き、江戸時代の天守がそのままの姿で、今もあの岩山の上に立ち続けているわ」
「あんな崖っぷちの岩山に……よく城なんて建てられたものだな……」
蒼太は呟いた。
城の建つ場所は、人の侵入を頑なに拒むような垂直の断崖絶壁だ。
資材を運ぶだけでも並大抵の労力ではなかったはずだ。
重機もない何百年も昔に、巨大な岩盤の上に石を一つずつ積み上げ、寸分の狂いもなく組み上げた野面積みの石垣。
「ねえ、蒼太。あの雲海を見てどう思う?」
「どう思うって……幻想的で、息を呑むほど美しいよ」
「そうね。でもね、雲海は所詮、冷たい霧の集まりよ。太陽が高く昇り、南風がひと吹きすれば、何事もなかったかのように跡形もなく消え去ってしまう」
やくもは振り返り、真っ直ぐに蒼太の目を見据えた。
その視線には、一切の曖昧さも甘えもなかった。
「時代の流行りや、手軽さ、効率なんてものはね、あの雲海と同じなのよ」
「流行が……雲海……?」
「そう。一瞬で沸き立って、世界を覆い尽くしたように見えても、実体なんて何もない。熱が冷めれば、あっという間に消えてなくなるわ。……でも、あの岩山の上にしっかりと根を張った城はどうかしら? 雲海が押し寄せようが、嵐が吹き荒れようが、何百年もの間、一歩も引かずにあの場所に立ち続けている」
やくもは蒼太の足元――破れたペラペラのナイロンリュックを指差した。
「あんたが東京で追いかけていたのは、あの消えゆく雲海だったんじゃないの? 『軽さ』という名の、中身のない霧。壊れたら捨てればいいという、無責任な手軽さ。……でもね、あんたの親父さんが織っていた一号帆布は、あの城を支える巨大な岩盤石垣そのものよ」
「石垣……」
「そうよ。時代がどれだけ移り変わろうと、決して崩れない『本物の土台』。それがあるからこそ、人は荒波を越えて帰る場所を見失わずに済むんじゃない? あんたのお父さんは、時代遅れなんじゃないわ。時代の軽薄さに流されず、城の土台を守り続けていただけよ」
雲海を縫うように、一筋の朝日が差し込んできた。
朝霧が黄金色に輝き、山城の白い漆喰の壁が、神々しいまでの光を放つ。
蒼太の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
自分は、親父の頑固さを「古い」と拒絶した。
だが、本当に古かったのはどちらだったのか。
数ヶ月でゴミになり、人の生活を傷つけるような安物のナイロンバッグと、何十年使い込んでも破れず、世代を超えて受け継がれる極厚の帆布。
どちらが真に「豊かなものづくり」だったのか――。
グウゥゥゥ……。
厳粛な静寂の中、蒼太の腹が情けない音を響かせた。
昨日から何も口にしていない胃袋が、極度の緊張と感動の反動で悲鳴を上げたのだ。
「……ぷっ、あははは!」
やくもが耐えかねたように吹き出し、お腹を抱えて笑った。
「せっかく私がいい話をしてあげてたのに、台無しじゃないの!」
「す、すまん……! 東京を出てから、水しか飲んでなくて……」
顔を真っ赤にして頭を抱える蒼太に、やくもはツインテールを弾ませながらウィンクしてみせた。
「いいわ! 次は岡山北部の奥座敷――新見へ行くわよ! 空っぽの胃袋に、本物の『肉と鉄の熱さ』を叩き込んであげるから、覚悟なさい!」
朝霧が晴れ渡り、眼下を走る伯備線の銀色のレールが、太陽の光を浴びて一直線に輝いていた。




