第140話:美観地区の白壁、頑固親父のシャトル織機
列車は高梁川の蛇行に沿って、山懐へと分け入っていく。
車窓に広がる緑の深まりを見つめながら、蒼太の記憶は五年前のあの日――倉敷美観地区の裏手に佇む、実家の古い織布工場へと引き戻されていた。
大正時代に建てられたノコギリ屋根の木造工場。
屋根の北側に設けられた天窓から、一日中変わらない穏やかな光が降り注ぐ中、耳をつんざくような激しい機械音が響き渡っていた。
――ガッチャン! ドタン! ガッチャン! ドタン!
地響きのような低音。
床の羽目板をビリビリと震わせ、耳栓をしていなければ数分で耳鳴りが止まらなくなるほどの爆音。
その音の主は、工場内に整然と並ぶ二十台余りの『豊田自動織機・シャトル織機』だった。
昭和初期に製造された、無骨な鋳鉄の塊。
木製の杼――シャトルが、左右のボックスの間を猛烈な速度で往復し、緯糸を一本ずつ経糸の間に打ち込んでいく。
現代の最新鋭織機がエアや水を使って目にも止まらぬ速さで糸を飛ばすのに対し、シャトル織機は職人の手加減ひとつで布の表情が変わる、驚くほど非効率で前時代的な機械だった。
その工場の最奥、一際重い音を立てていた一台の前に、父・水木源造は立っていた。
藍染めの作務衣に、頭に巻いた手ぬぐい。
六十を過ぎてなお丸太のように太い腕と、無数の油染みとタコが刻まれた分厚い掌。
源造は、織り上がっていく布の耳端を指先で抚で、わずかな張力の狂いすらも見逃さず、木製の楔を玄能で叩いて調整していた。
織られていたのは、帆布の最高峰にして究極の厚みを誇る『一号帆布』。
十番手の太い原綿の糸を、なんと八本も撚り合わせ、一インチ四方の中に限界以上の密度で緯糸を打ち込んでいく。
織り上がった布は、もはや布というよりは「しなやかな板」だった。
指でつまんでも容易に曲がらず、大人の男が両手で引っ張っても一ミリの伸びすら許さない。
『親父! いい加減にしろよ!』
大学を卒業し、デザイン事務所で働き始めていた蒼太は、源造の背中に向かって怒鳴りつけた。
『こんなガチガチの一号帆布、現代のどこに需要があるんだよ! 昔は船の帆やトラックの幌、氷屋の袋に使われてたかもしれないが、今は全部軽くて防水の化学繊維に取って代わられたんだ! アパレルのブランドに営業に行ったって、「厚すぎて家庭用ミシンの針が全部折れる」「重すぎて誰も普段持ち歩けない」って門前払いだぞ!』
源造は織機から目を離さず、ガッチャン、ドタンという音の中で、唸るような低い声で答えた。
『折れるなら、もっと太い針を使えばいい。縫えないなら、手縫いで通せばいい。……布を薄くしてどうする。軽さのために目を粗くして、何が帆布だ』
『時代が違うんだよ! 今の客は、軽くて、柔らかくて、汚れたらすぐ買い替えられる手軽なバッグを求めてるんだ! 重さ一キロもあるカバンなんて、誰も肩に掛けたがらない! 親父のやってることは、ただの自己満足だ! 時代遅れの化石職人が、過去の栄光に縋り付いてるだけだ!』
その言葉を吐き捨てた瞬間、源造の太い腕が空を切り、蒼太の頬を強烈に平手打ちした。
パアン! と乾いた音が織機の爆音を裂いた。
『出て行け』
源造の瞳の奥に宿っていたのは、怒りではなかった。
息子の浅ましさを憐れむような、冷たく深い失望だった。
『軽さに魂を売るような奴に、うちの機を踏む資格はねえ。二度とこの敷居を跨ぐな』
――あの日から、五年。
「……ははっ、俺の負けだよ、親父」
客室の窓ガラスに映る自分の青白い顔を見つめ、蒼太は自虐の笑みを零した。
親父の言う通りだった。
軽さと効率を信じ、流行の波に乗って調子づいていた自分は、結局、誰の命も守れない、数ヶ月で肩ベルトが千切れるようなゴミを世の中にばら撒いただけだったのだ。
「何が『俺の負け』よ。勝負すら投げて逃げ出したくせに、格好つけんじゃないわよ」
隣の通路に寄りかかり、腕を組んでいたやくもが、容赦のない言葉を浴びせてきた。
「親父さんの作った一号帆布を、あんたは『重い化石』って言ったのよね? でもね、蒼太。重いってことは、それだけ高密度に命が詰まっているってことよ。……何本もの糸を撚り合わせ、極限まで打ち込んだ布には、簡単に切れたり裂けたりしない『覚悟』が宿っているの」
やくもは自分のスーツドレスの胸元――大山のピンバッジにそっと指を触れた。
「この273系だってそうよ。昔の電車に比べたら、コンピューター制御で乗り心地はずっと快適になった。でもね、車体の台枠や台車、モーターの堅牢さは、何十年も過酷な山岳路線を走り抜いてきた先代たちの骨格を、何重にも強化して受け継いでいるの。基礎の『骨』がしっかりしていなきゃ、どんな最新のハイテクを積んだって、伯備線の急カーブで車体がねじ切れてしまうわ」
「基礎の、骨……」
「そうよ。あんたが東京で失ったのは、軽さの代償にした『骨』でしょ? ……さあ、次の駅で降りるわよ。あんたの頭を冷やすのに、うってつけの場所があるんだから!」
やくもがヒールを鳴らして前を指差すと同時に、車内放送が次の停車駅――備中高梁の到着を告げていた。




