第139話:新型振子の誇り、高梁川の蛇行を切り裂く
自動ドアが滑らかに閉まり、気密性の高い車内が駅ホームの喧騒を完全に遮断した。
水木蒼太は、やくもに強引に引っ張られて導かれた普通車の座席に、倒れ込むように腰を下ろした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! いきなり人を引っ張り込んで、一体どういうつもりなんだ!? 俺は切符だって買ってないし、伯備線に乗る予定なんて――」
「切符? あんた、さっき自分の手で触っていたでしょうが」
やくもはツインテールを揺らしながら、蒼太の胸ポケットを指差した。
そこには、先ほど不思議な熱を帯びていたあの硬券切符――『風の切符』が収まっている。
「『風の切符』を手にした者は、自らの魂のレールを見失った迷い人。……そして、その乗客を目的地まで送り届けるのが、私たち鉄娘の役目よ。文句があるなら、あのブロンズ色の夕焼け空にでも向かって言いなさい!」
「鉄娘……? 目的地って、俺が行きたい場所なんてどこにもないんだぞ!」
蒼太が叫んだ瞬間、床下から唸るような低音のインバータ音が立ち上がり、車体が微塵の軋みもなく滑らかに加速を始めた。
倉敷駅のプラットホームが後ろへと流れていく。
山陽本線の広大な複線からポイントを渡り、右へと大きくカーブして、単線の伯備線へと分け入っていく。
蒼太は思わず身構えた。
伯備線といえば、幼い頃から幾度となく耳にしてきた悪名高き「揺れの線路」だ。
岡山と山陰の米子・出雲市を、中国山地の脊梁を貫いて結ぶ陰陽連絡の大動脈。
だがその線形は、高梁川の切り立った深い渓谷の形状をそのままなぞるように敷設されているため、無数の急曲線が連続する。
先代の国鉄型381系特急『やくも』は、日本初の自然振子式電車としてその急曲線を高速で駆け抜けたが、遠心力によって車体が遠心方向に唐突に傾き、カーブの終わりでぐわんと揺り戻される独特の挙動から、「日本一乗り物酔いしやすい特急」として恐れられていたのだ。
(来るぞ……あの胃袋が浮き上がるような、振り子の強烈なGが……!)
蒼太は座席の肘掛けをぎゅっと握りしめ、身を固くした。
列車はみるみる速度を上げ、時速百キロを超えて高梁川の蛇行する断崖絶壁のカーブへと突入していく。
右へ、左へ、目まぐるしく視界の景色が切り替わる。
――だが。
「……え?」
蒼太は目を白黒させた。
いつまで待っても、あの内臓を揺さぶられるような唐突な傾斜も、カーブを抜けた瞬間の不快な揺り戻しもやってこない。
車体は、まるで生き物のように滑らかに、カーブの手前であらかじめ内側へと静かに倒れ込み、遠心力と重力が完璧に釣り合った状態で、吸い付くようにレールをトレースしていた。
テーブルの上に置いたペットボトルの水面すら、斜めに傾いた車体の中で、液面が水平を保ったまま微かに波紋を広げているだけだった。
「な、なんだこれ……!? 全然、揺れない……!? 伯備線のカーブをこの速度で突っ込んでいるのに、どうしてこんなに静かなんだ!?」
「ふふん! ようやく気付いたようね!」
やくもが胸を張り、得意満面の笑みを浮かべた。
彼女は手に持っていたタブレットを操作し、画面を蒼太の目の前に突きつける。
そこには、線路のリアルタイムな位置情報と、車体の傾斜角度を緻密に計算するグラフィックが表示されていた。
「これが、私――273系に搭載された世界初の技術、『車上型制御付自然振子システム』よ!」
「しゃじょうがた……制御付き?」
「そう! 従来の381系は、レールから受ける遠心力『だけ』を頼りに、ゴロンと車体を傾ける自然振子だったの。だから、遠心力が車体にかかってから傾き始めるまでにコンマ何秒かの遅れが発生して、それが乗客の三半規管を痛めつける原因になっていたわ。……でも、私は違う!」
やくものブロンズゴールドの瞳が、誇らしげに輝く。
「私の頭脳には、この伯備線のすべてのカーブの半径、カント(線路の傾き)、緩和曲線の長さが、ミリ単位のマップデータとして刻まれているの。走行地点を車上ジャイロと車輪の回転数で常に検知して、『次のカーブが来るコンマ数秒前』に、アクチュエーターが車体を最適な角度へと先回りして傾ける! そしてカーブが終わる直前に、自然な速度で水平へと戻すのよ!」
やくもは窓の外を指差した。
車窓には、初夏の濃い緑を映してエメラルドグリーンに煌めく高梁川の激流と、両岸に迫る白い石灰岩の断崖が迫っていた。
「見てごらんなさい、あの川を。高梁川は、何万年もの歳月をかけて中国山地を削り、この険しく美しい谷を作ったわ。山をダイナマイトで吹き飛ばして、トンネルだらけの真っ直ぐな線路を引くのは簡単よ。でも、私たちはそうしなかった。この美しい自然の地形に寄り添いながら、それでも陰陽を行き交う人々の時間を守るために、半世紀ものあいだ振り子の技術を磨き続けてきたのよ!」
やくもの言葉には、先代たちが背負ってきた過酷な歴史への深い敬意と、それを継承した者としての矜持が満ち満ちていた。
「自然の険しさを否定せず、その懐に飛び込みながら、己の技術を極限まで高めて受け流す……。それが、伯備線の『やくも』の誇りよ」
その言葉は、蒼太の胸を鋭利な刃物のように刺し貫いた。
(自然の険しさを否定せず、技術で受け流す……?)
蒼太は、足元に置かれた破れたナイロンリュックを見つめた。
自分が東京でやってきたことは何だったのか。
「本物の綿帆布は重いから」「製造に時間がかかるから」と、先人たちが積み重ねてきた素材の強度や耐久性を「時代遅れ」と切り捨て、薄っぺらな化学繊維で見た目だけを取り繕った。
負荷がかかるという現実から目を背け、コストと効率ばかりを追い求めた結果が、あの無残なベルトの断裂とリコールだったのではないか。
「……俺は」
蒼太の喉から、掠れた声が絞り出された。
「俺は……親父の作った布を、ただの重い化石だって馬鹿にして逃げ出したんだ……。そんな俺に、お前の言う誇りなんて、わかるはずがない……」
やくもはツインテールを揺らし、フンと鼻を鳴らした。
「わからないなら、これから見せてあげるわよ。あんたが切り捨てたものの重さと、あんたが目指すべきだった本当の『強さ』をね!」
列車は軽やかなモーター音を響かせ、伯備線の奥深くへと、さらに速度を上げて突き進んでいった。




